クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

見えなくなった主イエス

 三日ほど前にルカ福音書の最後、主イエスの昇天場面を読みました。その時は黙想をして時間切れ。今日はその続き、適用です。主イエスは弟子たちの目の前で天に上げられ見えなくなりました。主イエスは目に見えない世界に行かれました。マリアから生まれ、十字架で亡くなりましたが三日目に復活し、そして見えない世界へ行かれました。

 私には一つの祈りがあります。年をとったからの祈りですが、自分の死を受け入れることができるようにとの願いです。神の国に迎えられるのだから、それでいいじゃん、との内心の声もありますが、より深く信仰的に納得したいとの思いがあります。

 今日は主イエスの昇天場面から、一つの思いを与えられました。主イエスはマリアから生まれ、使命を果たし、見えない世界へ行かれました。主イエスと同じように、私も母から生まれ、使命を果たし終えて目に見えない世界に行くと考えよう。信仰者らしい死の受けとめではないでしょうか。主イエスと同じように!

 聖書を読み、思いめぐらしながら、死を受け入れる備えができるのも恵みだと思います。祈りにこたえてくださった神さまをたたえます。


 今日は午後散歩しました。説教黙想をしながらの散歩です。いつも車で通る通りにあるお店で、その店の前に人だかりができているので、なぜかなと前から疑問に思っていたので調査をかねてです。道路とお店の間に駐車場があります。駐車場のわきに細い路地があります。路地の入り口にはフレンチレストランの案内があるのです。いくらはやるフレンチレストランでも午後二時頃に行列ができるはずはないので、不思議に思っていたのです。路地の入り口に立ってみると、右側の奥にレストラン、左がその店でした。天然酵母で作った健康を重視したパンを売っているパン屋さんでした。これで一つ疑問が解決。

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校倉造りの正倉院

 

 

聖霊の導きを求めて(1)

 私が最初に教会に行ったのは、伝道集会に誘われたからです。社会人になっていました。20代前半です。でも正確に言えば、高校生の時、近所の友だちのお母さんに誘われて教会に行ったことがありますが、私自身幼すぎて聖書を全く理解できず、教会に行くのをやめてしまいました。

 伝道集会で話を聞いて思いました。信じれば救われる!これはまゆつばものだ、話がうますぎる、だまされてはいけない、そう思いました。信仰を持ってうまく行くなら、人生こんな楽なことはありません。教会に行くつもりはありませんでしたが、伝道集会の日の夜、教会が火事になりました。ただしボヤですみました。それで因縁を感じ、礼拝に通うようになりました。

 青年会の人たちと仲良くなりました。ある時、○○教会の祈祷会に行ってみたらと言われたのです。まだ洗礼を受けていないのに、全く知らない教会の祈祷会に行くなんて、ためられわれました。教会の前に行っても中には入れないことが二回ほどありましたが、ある日、決心して中に入りました。

 牧師がヨハネ福音書の話をしていました。その話しは理解できました。話が終わると何人かが手を上げるのです。そして「○月○日○時頃、・・・・・」。それが終わると祈りが始まりました。いっせいに祈りだしたのです。しかも何を言っているのかわからないのです。意味の分からない言葉が合唱のように聞こえてきて不気味でした。正直恐れを感じました。ここにいたら何をされるかわからないと感じ、その場を去りました。

 私がどんな反応を示すのか、青年会の人は私を試したようです。その祈祷会では、参加者がみな異言で祈っていたのです。異言があることなど全然知らない私は、ただただ不気味さと恐れを感じるだけでした。これが聖霊と私の最初の関わりでした。

 次回へ

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正倉院への道

 

また痛ましい事故

 今日、また痛ましい出来事が起きました。自動車事故の巻き添えで二名の幼い命が奪われてしまいました。先日も自動車が暴走し、自転車に乗っていた幼いこどもとその母親の命が奪われました。遺族の悲しみ、苦悩はいかほどのものかと思います。どう祈ってよいのか、わかりません。「子どもを返してくれ」との切ない叫びが聞こえてきます。

 確かなことは、この痛ましい出来事は人間が引き起こしたということです。悪意が起こしたものではなく、人間の過失が引き起こしたものと言えると思います。ということは自分も当事者になりうるということです。

 過失といえば今日、車で時々通る道で左折したら、二人の警官が手招きしていました。停車すると「一時停止違反です」と言われました。「一時停止の標識、気づいていましたか?」と聞かれ、「知りませんでした」と答えました。気づいていれば私は停まります。気づかなかった、それは私の過失です。

 しかし書類の処理が終わるまでバックミラーで曲がり角を見ていると、来る車で一時停止している車はいません。何台も曲がり、私の車の横を通って行きました。

必要を満たす神

 今日はフィリピ書の4章最後の部分を読みました。フィリピ教会はパウロの宣教のために物質的な支援を送りました。そのことをパウロは喜び、その支援は神に喜ばれるいけにえであると語りました。フィリピ教会の人たちは喜んだことと思います。そしてパウロは励ますかのように言います。

わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
(フィリピ4:19)

 この聖句はある時から、私たち夫婦を支える神さまの約束の言葉となりました。最初に赴任した教会では、三年目から会堂建築の話しが具体化しました。私が赴任する前から土地を購入し、移転する計画がありました。会堂建築のためにそれなりに献金をしました。

 次に赴任した教会でも会堂建築をしました。古い会堂でした。葬儀などで人が多く集まるとで二階の床が抜けるのではないか、との恐れがありました。また床にはシロアリが大量に発生しました。危機感を感じて会堂建築に取り組みました。そしてそれなりに献金をしました。経済的なゆとりなどありませんでした。私は四人子が授かりましたが、ある時、上の三人が同時に大学に在籍することがあり、授業料や住居費などのやりくりの窮することがありました。

 その時頼みとしたのが、上に引用した言葉です。神さまは必要なものをすべて満たしてくださるとの約束に信頼しました。といっても天からお金が降ってくるわけではありません。幸いに妻が保健婦(今は保健師)の資格を持っていました。この資格を生かして仕事をすることができました。週五日間の勤務ですが、勤務時間については、こちらの都合を受け入れていただくなど恵まれた条件で働くことができました。神さまは約束を実現すべく導いてくださる方であると知りました。そして子供たちを無事に卒業させることができました。献げるべきは献げ、必要は神さまに満たしていただく歩みを続けてきました。感謝な歩みでした。

わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(フィリピ4:20)

 

 

 

 

老いを生きる私の祈り

 年をとった者だから祈る祈りがあると思います。私の祈りを紹介します。

「召される時には、『よくやった。私のもとに来なさい』とのあなたの声を聞かせてください」。

と祈っています。牧師を引退したある日、思いついて祈り始めました。いつ召されるのかは分かりませんので、神さまの声を聞かせて、と祈っています。先日、テレビから「まもなく地震が来ます」との緊急放送が流れてびっくりしたことがあります。どれぐらいの地震が来るのか、強い不安を覚えました。この神さまの声が聞こえたらどんな気持ちになるのだろうか、と思いながら、でもこのように最後を迎えることができたら幸いだな思います。そしてその時には、イエス様のように

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。

と祈ることができたら、これも幸いだと思います。この祈りも祈ることができるようにと祈っています。

 自分がどのような最後を迎えるのかは分かりませんが、痛みや苦しみは嫌だな、と思う思いはほとんどありません。神さまがいいようにしてくださると確信しているようです。

 皆さんはどのような祈りをしておられるのでしょうか。

 

 

恵みの一日

 隠退牧師の生活は人それぞれであると思います。私たち夫婦は相手を介護する必要にまだ迫られていません。元気に生活しています。隠退しているからといって暇になるわけではありません。

 私自身は、聖書によって老いを生きるつもりでいますので、日々聖書を読むことは欠かせません。そして健康のために運動することも欠かせません。でも毎日継続して運動をすることはできないので、ハイキングをして体全体の筋肉を動かすことを心がけています。幸い、近所に「滝坂の道」とか、「春日遊歩道」というハイキングコースがあります。このコースを歩くために電車やバスを乗りついて来る方が多いですが、私の場合は、わが家が出発点です。

 昨日、首切り地蔵まで歩きました。行きは滝坂の道、帰りは春日遊歩道を歩きました。今回はコミヤマスミレ、ヒメアギスミレという比較的珍しいスミレを見るという目的がありました。妻は助け手と聖書は語りますが、私が見逃したスミレを妻が見つけてくれます。天気も良く、スミレを観察することができ、自然の中に身をおくぜいたくなハイキングを妻と共に楽しむことができ感謝でした。

 山から下りて自宅まで15分平坦な道を歩かなければなりませんが、突然「おばあちゃん」との声が聞こえました。孫娘の声です。娘が孫を連れて車を運転しているのに出会いました。最後の平坦な道はしんどいのです。家まで車に乗せてもらいました。恵みの出会いでした。

 春日遊歩道は道幅が数メートルあるので、マラソンの練習で走る人がおり、おしゃべりを楽しみながら歩く女性たちがおり、恋人たち、夫婦、様々な人が山歩きを楽しんでいます。

 今日は明日のためにあるのではなく、今日は今日のためにあり、今日一日を大切に生きることが老いを生きる<こつ>だと思います。帰宅後夕食のカレーを作り、充実した一日を過ごしました。感謝。恵みの神さまをたたえます。

 

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スミレの写真を撮っている私

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不思議なキノコ、でもきれい

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滝坂の道



 

神の言葉は実現する

 終末の事柄を本気で信じることは私にとって課題です。本気で信じるということは、もし信じるなら、それが私の信仰者としての歩みをかたちづくることになるということです。

 昨日、今日とイエス様の復活の記事をルカ福音書で読みました。24章です。イエス様の復活を語るルカ福音書には一つの特徴があります。イエス様の復活は、あらかじめ予告されており、予告されたことが実現した出来事だという見方が特徴です。イエス様が葬られた墓に来た女性に対して天使は言います。

「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。

 天使は女性たちに、自分は苦しみを受けて死んだ後復活する、とイエス様が弟子たちに語っておられたことを思い出させようとしたのです。

 そしてイエス様の復活を信じられないエマオ途上の弟子たちにイエス様は語られます。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。

 そしてイエス様は、

 モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 ご自分が復活されたことは聖書(旧約聖書)に書かれていることの成就だとイエス様は弟子たちに教えられました。

 ルカの復活記事を読んで私は思います。終末の事柄も聖書に書いてある。きっと世の終わりが来て実現するにちがいない。終末を神の計画と受けとめ、終末を語る聖書の言葉は必ず実現すると信じることの大切さを思いました。神の言葉は実現すると信じることが終末の事柄を真剣に信じる秘訣なのだと気づきました。

 終末に何が起こるのかを考える時、今、どう生きるかを聖書から教えられます。たとえば、

「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(ヨハネの手紙一3:2~3)。 

 終末を本気で信じる時、自分を清める歩みが始まります。御子に似た者とされて御国に迎えられることがイメージできます。