クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私にとっての主イエス(1) マイナスをつける方

 イエス・キリストは言うまでもなく、わたしたちの救い主です。私がまだ求道者の時、私が知らされたのは、主イエスが自分の命を犠牲にする生き方を選ばれたということです。十字架の上で命を落とされました。しかも自ら進んで。自分の命を犠牲にするという主イエスの生き方に驚きを覚えると同時に、一つの光が私の人生に射し込んできた思いがしました。

 かけ算で、マイナスにマイナスをかけるとプラスになります。イエスというお方は、私たちの人生にマイナスをかける働きをするお方と知らされました。当時の私は空しさに支配され、生きる意味を見出せずにいました。生きていかなければならないから仕事をしました。でも空しい日々の歩みでした。しかし空しい人生つまりマイナスの人生がイエス・キリストに出会うとマイナスかけるマイナスでプラスになると教えられました。

 当時の私は空しさを克服するために何をしたらよいのか、何を得たらよいのか、とプラスの人生を求めていました。プラスを求める生き方ではなく、むしろマイナスの生き方こそ、イエスによってプラスになる、と教えられました。本当かどうか分かりませんでしたが、当時の私には、一つの光が私の人生に射し込んできたような思いを抱きました。

 (マイナス)*(マイナス)=プラス
 (マイナスと思える人生)*(イエスによるマイナス)=プラスの人生
 (プラスと思える人生)*(イエスによるマイナス)=マイナスの人生

 自分の人生をプラスにするために何かを得る生き方ではなく、自分を与える生き方こそ、プラスの人生になることを知りました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。(マタイ16章24~26節)。

 イエスというお方は、私たちの人生にマイナスをつけるお方。自分を捨て、自分の十字架を背負うというマイナスの生き方は、イエスのマイナスと掛け合わされてプラスになることを知り、イエスを信じて歩むうちに空しさが消えていきました。牧師に導かれたのも、イエスがマイナスをかけるお方だと知ったからではないかと思っています。

 自分の幸せを追求する人生は、イエスのマイナスと掛け合わされてマイナスになることをマタイ16章の言葉は物語っています。

 

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白い萩 散歩道にて

 

聖書を糧とする

 先週は風邪を引いたので体を休めました。今度の日曜は説教奉仕があるので、説教準備に影響がないようにと祈りました。聖書を黙想することを休んでしまったら、心が干からびてしまうような思いをしました。これには少し驚きました。自分にとって聖書が本当に心の糧になっているというか、聖書を糧としていることが確認できてよかったです。
 夜中に咳き込んで目が覚めることがありました。夜中に目覚めるときは、羊の数を数えることはしないで、説教予定の聖書箇所を思いめぐらすのが習慣です。翌朝になると忘れてしまうことが多いのですが、説教には役立つ黙想ができているように思います。昼間に黙想していると思い出します。

 この2,3日は9月に説教する詩編8編と90編を思いめぐらしました。思いめぐらす最初の段階は、「なぜ?」です。詩編8によると、「神にわずかに劣るものとして人を造り」とあります。人は神にわずかに劣るとはどういうこと?全然劣るでしょ!神は全能。人間は不完全、能力に限界がある。無力感をしばしば感じる!

 人間は被造物をおさめるように神に使命を与えられました。神の代理として治めるのですが、とてもうまく治めているとはいえません。「なぜ?」と疑問を抱き、色々思いめぐらすのが楽しいです。

 

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懐かしい「ほおづき」

忍び込んでくる思い

 10年以上も前のことになるかもしれません。ある教会員の方が私に「僕はいつ死んでもいい、と思っている」と話されました。少々、驚きました。簡単に言える言葉ではない、と思ったからです。その方は持病を持っていたので、いつ何時、万が一のことが起きてもおかしくないと思っておられたのだと思います。覚悟を持っておられたのだと思います。それを言葉として私は聞いたことになります。

 このことを今日思い出しました。月曜から喉に違和感を感じています。体はだるいです。できるだけ何もしないでゆっくり過ごしています。咳が出ます。日曜までに治ればよいと思っています。その次の日曜日は説教奉仕がありますので、日曜までには何としても治りたいです。

 体にだるさを覚えるせいか、ふと死んだら楽になるだろうな、との思いが忍び込んできました。神さまのもとに行くのだからそれはそれでいいなと思ったりしました。歳のせいですね。でも私はいつ死んでもいいとは思っていません。そのような心境にはまだ達していません。自分の死を喜んで受け入れるという課題は、継続中です。喜んで歳をとり、喜んで死ぬという願いは欲張りでしょうか。

 自分の死を受け入れることができる一つの理由は、イエス様が亡くなられたからです。イエス様が死なれた以上、私も死ぬのを拒む理由はありません。わが主に倣う、これが私の信条です。イエス様に従おうとする私も、イエス様にならって死ぬと、死を位置づけています。仕方なく死ぬのではなく、イエス様に倣って。イエス様が通った道は私も通るのです。そして、イエス様に倣って復活するとの希望を抱きます。

 

 

よろこんで歳をとる(5)

 『よろこんで歳をとりたい』を読み終わりました。味わい深い本です。年老いた人は、共感する部分があると思います。読むだけなら一時間足らずで読めます。きっと繰り返し味わいながら読むことになると思います。後書きによると原題は『よろこんで歳をとる』とのこと。原題では、意志が明確に表されています。訳本では「とりたい」と願望を表現しています。訳者はあえて「歳をとりたい」と願望の表現にしたとのことです。いかにも日本人的発想だと思いました。

 そこで私は自分のブログの題はどうだったかと気になりましたが「よろこんで歳をとる」となっており意志的な表現になっていたので安心しました。

 以前教会でマスとタイの話をしたことがあります。魚の話ではありません。「~します」と語るか「~したい」と語るかの違いを問題にしました。神さまの前では、「~します」と態度をはっきりさせるのがよいと思います。キリスト者として私はこのように「生きたい」ではなく「生きます」と自分の態度を明確にすることが大切だと思います。

 

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イェルク・。ツィンク著

 

イエス様が私に語りかける?

 昨日の日曜は、和歌山県G教会の礼拝に説教奉仕をしました。礼拝堂の講壇の両脇には小さな部屋があります。祈りの部屋、御言葉の部屋と二つの部屋があります。講壇に上がるには、祈りの部屋を通ります。祈りの部屋で祈ってから講壇に上がるという意味があるのだと思います。
 祈りの部屋に入ると長イスが置いてあり、長イスの前方にはガラスの台があります。その台には聖書の言葉が刻まれています。 

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祈りの部屋

 刻まれている聖書の言葉はヨハネ福音書11章25節の言葉です。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。

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刻まれた御言葉

 私はこの祈りの部屋に入り、長イスに座り、その聖書の言葉を読むと不思議な感覚を覚えています。つまりイエス様が私に語りかけてくださるような感覚です。イエス様が私に「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と語りかけてくださっているような感覚に陥るのです。そして信じる者になろう、という気持ちになります。

イエスの恵み(15)悪夢が追い払われた!

 御殿場教会に仕えていたときです。ある時一組のご夫妻が転入会されました。このご夫妻は若い頃南米に移住されました。かの地で仕事をし、子どもを育て独立させ、一段落したので、日本に来られたのです。信仰生活をされたいとの願いをもって帰国されました。

 日本でも仕事を見つけられ、そして教会に来られました。何年かが過ぎたとき、ご主人(Sさん)が白血病になりました。入院し、治療をされました。寛解状態になり、日常生活に戻られました。しかしまた再発してしまいました。

 その頃どういうわけか、病気になる方が多く、生ける神さまを知った私は、心からいやしを求めて祈りました。

「イエス様、あなたは、あなたのもとに来た病人をすべて癒やされました。私とSさんはあなたのもとに行きます。いやしてください。今私の手をあなたの手とし、私が手を置いて祈る時、どうぞ癒やしを与えてください」。

 私は毎週電車に乗って見舞いに行きました。見舞いに行くときは必ず聖書の話をし、信仰に立つようSさんを励まし,祈りました。ある時、Sさんが「悪夢を見るのです。車を運転していると石が飛んできてフロントガラスを砕き、砕けたガラスの破片が顔に向かってくるのです。恐ろしくて目が覚めます」と話されました。

 それでSさんの頭に手を置いて祈りました。その日はそれで帰りましたが、次の週見舞いに行ったとき、「祈っていただいた日から悪夢は見なくなりました。先生に祈っていただいたとき、先生の手から何か電気のようなものが流れるようなビリビリするものを感じました」と言われました。私の手は何も感じませんでした。

 癒しはおきませんでしたが、Sさんが平安に眠ることができるようになったことは感謝でした。忘れられない出来事、生きて働かれる神さまの恵みでした。

 

イエスの恵み(14)生ける神を知る

 鳥羽教会を8年牧会した後、静岡県の御殿場教会に転任しました。13年牧会しました。私の牧師人生、いや信仰者としての人生を一変させた出来事がありました。それは生きて働かれる神を知るという出来事でした。日曜日に教会に起きたある事柄を覚えて、月曜日、一日中祈りました。その日は牧師会があったので、車で熱海まで出かけ、また熱海から帰ったわけですが、運転しながら祈っていました。

 翌日、その祈りが聞かれたことがわかり、目が覚める思いをしました。祈りがあざやかに聞かれるという経験は初めてでした。神は生きて働かれるお方なのだ!

 信仰者なのに、牧師なのに、何それっ、て言われるかも知れませんが、私にとっては本当に驚きでした。

 神学校に通っていたとき、ある牧師が授業の中で「神は本当にいるのかと言われたら、わからないと答えます。でも私は神がいると信じて生きています」と言われたことが心に残っていました。この言葉を聞いたとき、そうだよ、信仰とはそういうものだと納得したのです。神がいる方に賭けて生きる、実存主義的な生き方に私は共感したのです。神さまはおられるって確信をもって言われると何か嘘っぽく感じてしまう自分がいたのです。

 その日から、神は生きて働かれるお方であるとの確信に立つことができるようになりました。そして聖書が、神の言葉であると心から信じることができるようになり、確信をもって説教をすることができるようになりました。聖書は神の言葉である、このことが腑に落ちたのです。

 神さまは、私を福音を伝える者となるように導いてくださいました。忘れることのできない恵みです。

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御殿場教会旧会堂