クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生でつらかったこと(2)学生時代

 大学生の時、学園紛争と呼ばれる事態に巻き込まれました。私たちは学園闘争と呼んでいました。私は大学当局と対立する側に身を置きました。私たちが出入りする建物は学生が占拠し、授業は行われず、討論をする日々が続きました。自分には事態に対する明確な信念も意見もありませんでしたが、どの立場に自分は納得できるかという判断で自分の立場を決めました。やがて学内に警察力、機動隊が導入され、学内は一挙に正常化に向かいました。つまり授業が再会され、何事もなかったかのような日常に戻っていったのでした。

 これに抗議する仲間の級友たちは留年を覚悟で授業をボイコットしました。一般学生と呼ばれる人たちは授業に参加し、卒業を目指しました。

 そんな中で私は自分の身の置き場所に悩みました。家庭の事情で留年することはできず、さりとて授業に参加するというのは、仲間と袂を分かつような気がして、どうしたらいいのか迷い、悩み続けました。辛い日々が続きました。確かな信念があれば、留年を選ぶこともできましたが、そこまでの信念はありませんでした。結局授業に出席し、卒業することを選びました。

 確固たる信念を持つ人間になりたいと心底思いました。そして今信仰者となり、神の言葉に立って生きる者となりました。人生に無駄なことはありません。

 その頃はやっていた歌に「圭子の夢は夜ひらく」があり、歌詞の「私の人生暗かった」に共感を覚えました。忘れられない歌です。藤圭子さんの歌。彼女は歌手、宇多田ヒカルさんの母ですね。

赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく

十五、十六、十七と
私の人生暗かった
過去はどんなに暗くとも
夢は夜ひらく

 級友の一人の言葉が心に残っています。「僕は永遠に生きるつもりでいる」。若さゆえの言葉だと思います。私にとっては思い浮かびもしない言葉でした。自分が死ぬ存在であるとの思いが全くないのです。同じ人でも考え方はずいぶん違うものだと思いました。忘れられないです。

 

f:id:holala:20200211203053j:plain

鬼瓦 散歩道にて

 

 

 

人生でつらかったこと(1)幼い頃から

 NHKで『街録』という番組があります。NHKのアナウンサー?が街頭に出て行き交う人に突然のインタビューをします。そこで語られるのは、人生の苦境であるとか、つらかったこととか、人生を変えるような出来事などが話されます。楽ちんな人生を歩んでいる人はいないことを思います。それで、もし私がインタビューをされたら何を語るのかなと思いました。それで私の人生でつらかったことは何か思いめぐらし、それを書いてみたいと思いました。3つのことを書いてみたいと思います。

 最初は、ブログにも時々書いていることですが、わたしは幼いとき、人は死ぬものであることを知り、死を恐れました。死の恐怖に震えおののいたことです。震えおののく、つらいです。幼い子供には、どう対処していいか分からず、死を考えないようにしました。

 親は自分より先に死ぬと思うと、「死ぬ」ことについて親に聞いてはいけないと考えました。それで独りで抱え込んで大人になりました。

 死を恐れる、これは自分が弱いからだと思いました。自分の弱さを人に見せることはできません。小さな見栄がありました。サラリーマンをしていたある時会社の同僚と喫茶店で話をしていたとき、彼も死の恐れを感じていることを知り、じぶんだけではないのだとほっとしました。でも解決したわけではありません。恐れにとらわれることはつらいことでした。

 このつらさは、絶えずわたしを苦しめたわけではありませんが、子どもから大人になるまで、いや大人になってからも苦しんだつらさでした。長期間にわたるつらさでした。信仰を得て、このつらさから解放されました。

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。(ヘブライ人への手紙2章14~15節)。

 もし自分がインタビューされたら、この「つらさ」は話さないと思います。自分の死を考えないようにしている人たちの心を乱したくないからです。 

 

f:id:holala:20200210231821j:plain

鬼瓦 散歩道

 

 

自由へのあこがれ

 最近音楽を聞く装置を新しくしています。アンプとスピーカーを新しくすることにしました。それで昔よく聞いた曲も聞き直しています。今、五輪真弓さんの『時の流れに~鳥になれ~』を繰り返し聞いています。曲の終わりのフレーズが次の通りです。

鳥になれ おおらかな
つばさをひろげて
雲になれ 旅人のように
自由になれ

 大学入試に失敗して浪人になり、毎日予備校に通いました。受験生活の息苦しさがあったのでしょう。ある時授業をサボり電車(東海道線)に乗って真鶴岬(まなづるみさき)に行きました。海と空を見て、広さを感じました。空を飛ぶ鳥を見て、自由に飛んでいる、いいなあと思いました。後に五輪真弓さんの曲を聞き、共感しました。

 やがてイエス・キリストを信じるようになりました。自分の罪に気づかされ、赦しの必要を感じ、救いを求め洗礼を受けました。自由へのあこがれをもつ私は、罪からの自由、罪からの解放を聖書から教えられ、喜びました。恐れ、妬み、思い煩いなどからの自由も与えられ、信仰により平安と喜びを与えられました。

 牧師になって見ると、罪からの自由を知らない信仰者の多さに驚きました。罪からの自由を知らない牧師もいるのではないか、と心の中で思ったこともありました。なぜ自由へのあこがれが自分の中にあるのか分かりませんが、神さまからの賜物と感謝する次第です。

 そして牧師として神の国を目指してこの世を旅しています。私は旅人です。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8章31~32節)。

 

f:id:holala:20200208230548j:plain

立派な蝋梅の木 散歩道にて

 

 

聖書に描かれている罪(12)パウロの罪

テモテ一1:15
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

 イエス・キリストに出会う前のパウロは、熱心なファリサイ派の信仰者でした。この点について彼はこう述べています。

フィリピ3:15~16
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

 パウロは神に仕える者として熱心にキリストの教会を迫害しました。それが正しい行為、神に対する熱心さから生まれた行動だと信じて疑わなかったのです。しかしダマスコ途上の道で彼は、復活されたイエス・キリストに出会い、イエス・キリストこそ、神が遣わされたメシアであると知らされ、キリストご自身から福音を宣べ伝える使命を与えられたのでした。誰よりも律法を行うことに熱心でだれにも負けないほどだと自分の義を誇っていたパウロはキリストとの出会いにより打ち砕かれたのでした。

 神に対する熱心さからの行動が実は神の御心に反していたのでした。このことに気づかされたとき、呆然としたのではないかと想像します。自分が見えなかったのです。自分が何者か分からなかったのです。それで自分のことを「罪人の中で最たる者です」と述べているのです。

 人間はどうしても自分は正しいと思いたいものです。意見が違えばそこに争いが生じます。人はいとも簡単に他者を批判します。自分は正しい者と思いたい、そこに傲慢という罪があります。そして人は自分を誇ります。

「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ9:41)。

 イエス様がファリサイ派の人々に語った言葉です。高慢、傲慢、思い上がり、謙遜さの欠如、自分を誇る、大きな罪です。神を見失っている人は、自分を大きくします。

 

 

f:id:holala:20200207224656j:plain

真冬でも咲いてくれるスミレ。外国産です。

 

 

 

聖書に描かれている罪(11) ペトロの罪

 イエス様の弟子ペトロが犯した罪です。どの福音書にも書かれています。比較して読むと興味深いです。マタイ福音書から引用します。


イエスは弟子たちに言われた。

「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

 するとペトロが言います。

「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」

するとイエスは言われます。

「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。

 ペトロは言います。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」

 イエス様が捕らえられ、大祭司カイアファの家に連れて行かれたとき、ペトロは後をついて行きました。そして「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われ、ペトロは「そんな人は知らない」と言ってしまいました。

 ペトロは自分がイエス様と一緒にいた者であることが明らかになったら自分も捕まるのではないか、と恐れにとらわれたと思います。そして反射的にイエス様のことを知らないと言ってしまいました。嘘をついたのです。それはイエスを裏切る行為でした。

 思いがけないことが起きたときに、私たちは恐れを感じたり、怒りを感じたり、憎しみや妬みなどを感じ、それらの感情に流されて思わぬことをすることがあります。自分を守るために嘘をついたりします。怒りに駆られて暴力を振るうこともあります。感情に流されてしまう、これを人間の弱さということができます。この弱さゆえに人は罪を犯します。「仕方がなかった」と弁解するかもしれませんが、罪を犯した事実は消えません。

 ヨハネ福音書は、ペトロの罪に対する赦しをイエス様が与えたことを書いています。

 

f:id:holala:20200206220811j:plain

古都奈良らしい町並み 散歩道にて

 

聖書に描かれている罪(10)王たちの罪

 聖書はイスラエルの王たちがいかなる王であったかを記します。

歴代誌上下28章1~2節
アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。彼は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった。彼はイスラエルの王たちの道を歩み、その上バアルの神々のために像を鋳て造った。

アハズの孫がマナセです。

列王記下21章1~2節
マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。その母は名をヘフツィ・バと言った。彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。

列王記下21章19~22節
アモンは二十二歳で王となり、二年間エルサレムで王位にあった。その母は名をメシュレメトといい、ヨトバ出身のハルツの娘であった。彼は父マナセが行ったように、主の目に悪とされることを行った。父の歩んだ道をそのまま歩み、父が仕えた偶像に彼も仕え、その前にひれ伏し、先祖の神、主を捨て、主の道を歩まなかった。

 三人の王だけでなく、何人かの王が同じように語られています。つまり、偶像礼拝を行ったのです。主の目に悪を行うとは、偶像礼拝を行うことです。それは言い換えれば、主を捨てたということです。

 つまり、罪とは神の掟を破るとか、不道徳なことを行うというようなことではなく、神の目に悪を行うこと、神を捨てることです。神に対する態度が問題なのです。神の御心を真剣に受けとめない、それが罪です。そこから神の掟を破るさまざまな行動が生まれてきます。

 私たち異邦人は、罪というと悪いことを行うことと理解しがちです。悪いことを行うのは、神の御心を重んじない心があるからです。神の御心を重んじない心、その心は罪に汚染され、罪に支配されている心です。この心から悪しき行いが生まれてきます。

 現代の日本人は、「あなたは罪人だ」と言われても受け入れないでしょう。だれもが認めるような悪しき行為を行っていないと反論するでしょう。でも罪とは、聖書が伝える神に対する態度なのです。神の御心を重んじない、それが罪です。

 私自身、信仰者であり牧師でした。ある時、神の御心を重んじない心があることに気づかされ、自分は頭のてっぺんから足のつま先まで罪のかたまりであると知らされ自分は本当に罪人だと思わされましたし、今もそう思っています。

 でも私のアイデンティティーは「罪人」ではありません。「罪人」ではなく、イエス・キリストにあって「神の子」であり、罪赦された「義人」です。神さまの目に映る私は罪人ではなく、神の子であり、正しい人であり、聖なる者です。

 

f:id:holala:20200205231313j:plain

蝋梅、良い香り。あちこちの家で植えられています。

 

分かち合いについて

 伝道が困難と言われる中、分かち合いこそ、伝道を活発にする鍵ではないかと私は考えています。

 私が金沢元町教会に赴任したとき、教会はアルコール依存症の人たちに場所を提供していました。アルコール依存症の自助グループの話し合い(分かち合い)のために場所を提供し、私も求められたので何年か参加しました。自助グループの話し合い(分かち合い)は、今広がりを見せています。

 たとえばガンで大切な人を喪った人たちのグループ、自死した家族をもつ人たちのグループ、薬物依存症の人たちのグループ、色々なグループがあります。これらのグループに参加した場合、自分と同じ経験をした人たちの話を聞くことができるし、また自分も話をすることもできます。自分の思いを話すことで気持ちが楽になり、苦しんでいるのは自分だけではないと知ることも気持ちを楽にさせますし、参加者が皆、生きていこうとするのを見るとき、励ましを得ることができます。

 このようなグループの場合、参加者は皆似た経験をしているので、自分のことが話しやすいです。また共感をもって他の人たちに聞いてもらえます。グループに属することは安心感を与えます。ただ誰もが参加できるわけではなく、当事者(共通の経験をもつ人)でなければ参加できないという制約はあります。このようなグループに参加し、互いの経験を分かち合うことを通して励まされ、生きる力、勇気を与えられるところにこのようなグループの意義があります。

 教会にもこのような分かち合いのグループがあってよいと私は考えています。聖書によれば人間は罪の奴隷、罪の支配下にあります。イエス・キリストは私たちの犯した罪を赦し、罪からの自由、解放を与える方です。罪依存症(罪を犯さざるを得ない)の私たちが罪から解放されて生きることができます。その経験を分かち合うことは信仰生活にとって大きな助けになります。

 教会での分かち合いは、いきなり自分の罪を話すのではなく、もっとゆるやかな話し合いでいいと思います。つまり聖書を読んでの感想などを分かち合いを行います。あるいは日曜の礼拝説教を聞いての分かち合いもよいと思います。聖書や説教を神さまの語りかけとして受けとめ、自分がどう受けとめたのかを分かち合います。週の半ばに聖書の学びをしている教会が多いと思うので、この分かち合いはすぐに始めることができます。

  聖書の言葉を自分の生活の中で受けとめ、聖書によって自分はどのように生きようとしたのか、どのように歩もうとしたのかが分かち合われるようになると分かち合いが深まります。自分の置かれた状況の中で、自分がどのように御言葉によって歩んだのかが分かち合われます。この分かち合いには参加資格はありません。人生を生きるという意味ではだれもが当事者となります。求道者が身を置けば、聖書によって生きようとしている信仰者の姿は参考になると私は信じています。悩みながら、問題に直面しながら、苦しみながら、それでもなお神に信頼して生きようとする姿は、信仰への導きとなります。

 正直な分かち合いが行われるとき、そこに祈りが生まれます。互いに執り成しの祈りをするようになり、互いに愛し合う信仰者の交わりが生まれます。

 信仰者も、世間の人と同じ状況の中で生きています。似た悩みを抱きます。違うのは御言葉によって生きようとするところです。分かち合いによって御言葉に生きる信仰者の姿は伝道する力があります。私はそう信じます。

f:id:holala:20200204200758j:plain

奈良市町並み 生駒山の向こうは大阪