クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

心のうちにある動機

 ヨハネ福音書を読んでいて、人間の行動の「動機」について考えさせられました。というのはヨハネ福音書では、父なる神とイエスが、相互に栄光を与えると書かれており、真理の霊(聖霊)はイエスに栄光を与えたとも書かれています。栄光を与えるってどういう意味なのかを思いめぐらしました。そして私たち信仰者の行動の「動機」も、神をたたえることにあり、決して自己実現ではないことを思いました。そして自分を振り返りました。


◎私が聖書を読む理由(動機)

  • 神さまは、私に対してよい人生を備えておられる。神さまが備えてくださる人生が最高の人生である。私はこう信じている。
  • 神さまは、み言葉により私に導きを与え、神さまが備えておられる人生へと導いてくださると私は信じる。
  • 私は聖書を通して、神さまの導きを受け取る。
  • 私にとって聖書を読む行為は、神さまは私に最善の人生を用意し、そこへ私を導いてくださるとの信仰の告白である。

◎私が礼拝に行く理由(動機)

  • 私には、礼拝は信仰者の義務だから礼拝に行く、という思いはない。
  • 礼拝に行くのは当たり前、自然という感覚がある。
  • 神さまと私の関係を思うとき、礼拝を献げるのは、神さまを神とする信仰の行為。
  • 神を信じる者として、神を神とする行為として礼拝があり、礼拝を献げている。

◎私が説教をする理由(動機)

  • 神さまから与えられた使命と受けとめている。
  • 説教を準備し、説教することは喜びである。
  • 説教は、自己実現の手段か? それはないと思う。
  • 自分はすべきことをしただけであり、自分を誇る思いはない。
  • 神さまが与えてくださる救いの恵みの広さ、深さ、豊かさを解明して語る行為は、光栄な行為と受けとめている。

 神さまをたたえる思いをもって生きていることを確認できてよかったです。

 

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広い空

 

時間の感じ方

 朝目覚めると今日も一日が始まると思います。この一日は老いの一日であり、毎朝目覚めると同じ「老いの一日」を生きることを思います。昨日も、今日も、そして明日も「老いの一日」です。毎日が「老いの一日」の繰り返しです。こんな感じ方をするのは最近になってです。

 今日テレビで面白いことを聞きました。時間の流れには二種類あるとのこと。一つは直線の流れ。赤ちゃんが成長し、少年となり、青年となり、・・・・。この直線的な時間の流れの中で私は老いていきます。

 もう一つの流れは、春が来て夏が来る。夏が来て秋が来る。秋が来て冬が来て、そして春が来るという流れ。この時間の流れは循環です。老い日々とは、「老いの一日」の繰り返しです。

  若いときは、今日を生きるとは昨日とは違う日を生きることであり、明日を生きるとはは今日とは違う日を生きることでした。そして明日に対する期待がありました。老いた者には明日に対する期待よりも明日に対する不安が大きいと思います。体調に対する不安、体の衰え、経済的な不安。

 今の私の「老いの一日」に変化を与えているのは、説教奉仕の準備です。隠退していますから、毎週ではありませんが、日曜の説教奉仕に向かって時間が流れていきます。充実感を感じます。

 そしてもう一つ。平凡な毎日の繰り返しの中で、聖書を読んで聖書を思いめぐらすデボーションをすること。聖書との対話は、思いがけない気づきを与えてくれてうれしいです。

  

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他人(ひと)は他人 我は我なり 花咲かす 置かれた場所で ただひたすらに

 

 

聖書が語る救いについて(3)神の国を目指す旅に生きる

  前回、「救いは、神が導かれる人生を歩むことである」と書きました。神は私たちをどこへ導こうとされるのでしょうか。これを考えるときヒントになるのは、出エジプトの出来事です。

  • イスラエルの民は奴隷として苦しんでいました。彼らが救いを求めて神に叫んだ結果、彼らは、神により、奴隷状態から救い出されました。
  • イスラエルの民は、彼らを窮地から救い出す神と出会ったのです。
  • その神は彼らに、自由に生きる土地に連れて行くとの約束をなさいました。
  • イスラエルの民は、約束の地に向かって荒野を旅しました。
  • やがてイスラエルの民は約束の地に着き、そこに住み、後に王国を建てました。

 この出エジプトの出来事は一つのモデルです。もし「実体と影」(ヘブル10:1)という言葉を使うなら、出エジプトの出来事は影であり、別に実体があります。影は実体を指し示します。つまりイエス・キリストを信じる人たちにとっての本体です。

 人は色々なきっかけでイエス・キリストを信じるようになり、信仰生活を営みます。洗礼を受ける、それが出発点です。イスラエルの民が約束の地を目指して荒野を歩んだように、キリスト者は神の国を目指してこの世を旅します。

 イスラエルの民が約束の地を目指して荒野を旅したように、信仰者は神の国を目指してこの世を旅するのです。イスラエルの荒野の旅が影なら、キリスト者の神の国を目指す旅が実体です。

 イスラエルにとって荒野の旅は、安楽な旅ではなくしばしば困難を伴いました。しかし常に、そして必ず、神は共にいて助けてくださいました。そこで求められたのは神に信頼し、約束の地を目指して歩むことでした。たとい困難が起きようと神に信頼すれば、神は助けてくださり、そこに神への賛美が生まれました。

 イスラエルの民がエジプトを脱出し旅を続けて、海に面した場所で宿営しました。その時背後からエジプト軍が追ってきました。前は海、後ろはエジプト軍。前門の虎、後門の狼です。窮地に陥ったイスラエルの民でしたが、神は彼らを救い出し、イスラエルの民は神を賛美しました。

 「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。『主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる』」(出エジプト記15章)。

 私たちキリスト者は、この世を旅します。信仰者の人生は神の国を目指す旅です。私たちは、困難があろうとも神に信頼してこの世を旅します。実際には、迷ったり、不安に陥ったり、疑ったりしますが。でも神の国を目指す旅をしているとき、私たちは救いのなかにおかれているのです。パウロは、このような歩みをする者に「愛、喜び、平和」が伴うことを語っています(ガラテヤ5:22)。また私たちは神を礼拝し、神を賛美して歩みます。

 

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アスファルトの歩道の片隅に咲こうとするスミレ。誰の注目を引くこともなく。

 

聖書が語る救いについて(2)神に導かれる人生を生きる

 新約聖書の福音書にはイエス様の活動が書かれています。マタイ福音書によれば、イエス様は次のように語り宣教活動を始められました。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)。

 マルコ福音書では、

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:17)

 ルカ福音書でイエス様は次のように語っておられます。

「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」(4:43)。

 神の国とは、神の御支配を意味します。イエス様は、神の御支配の中を生きるように人々を招かれたのです。興味深い物語があります。イエス様が重い皮膚病を患っている10人を癒やされる物語です(ルカ17:11以下)。

ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

 癒やされてイエス様のもとに戻ってきたのはたった一人だけでした。その他の人たちは、自分の住んでいる村に戻ったと思われます。イエス様の到来は、神の御支配の到来を意味します。イエス様と共に神の御支配が現れ、重い皮膚病の人たちは癒やされました。自分の病気が治りさえすればよいと思った人たちはイエス様のもとに戻りませんでした。病気が治れば、もうイエス様は関係ないのです。たった一人だけがイエス様のもとに戻ってきました。

 病気の癒やし、悪霊を追い出してもらえるという体験は救いですが、それは一つのきっかけです。神の国、神の御支配の中にこれから生きていこうとするきっかけなのです。イエス様は神の国の福音を宣べ伝えられました。つまり神の御支配の下に生きるように人々を招かれたのです。言い換えると神に導かれる人生を歩むように招かれたのです。神の用意された未来に生きるように招かれたのです。

 昔イスラエルの民がエジプトにおける奴隷状態から救い出されました。これは一つのきっかけです。神さまは彼らに未来を用意しておられました。つまり神が用意された土地で自由に生きることのできる未来です。そこでエジプトを脱出した民は、その地を目指して旅をしました。神に導かれる人生を歩み出したのです。そこで必要なことは神に信頼することでした。神の導きを信じ、どんな困難があっても神に信頼することでした。
 しかし困難が起きるとモーセに文句を言い神に不平を言った人たちがおり、この人々は神の用意された土地に入ることはできませんでした。彼らは、神に導かれる人生を歩もうとはしなかったのです。自分の人生は自分の思うように生きるという姿勢でした。困難を強いられるのは真っ平御免なのです。イエス様によって重い皮膚病が癒やされた9人の人はイエス様のもとに戻らず、自分の思うように生きようとしました。病気が治れば、もうイエス様は無関係なのです。

 本当の救いは、神が導かれる人生を歩むことであると私は信じます。奴隷状態からの解放、病気の癒やし、悪霊からの解放、これらはいわば神との出会いであり、一つのきっかけです。この神との出会いは、神の恵みとの出会いです。神の恵みと出会ってどうするのか。自分の問題が解決したので、後はまた自分の思い通りに生きようとするのか、それとも神の恵みに身をゆだね、神が導かれる人生を歩もうとするのか。

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早咲きのスミレ


 神が導かれる人生を歩む、それが救いであると私は信じます。

 

 

聖書が語る救いについて(1)神が用意された未来に生きる

 救いを考えるとき、念頭に浮かぶのは出エジプトの出来事です。イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しんでいました。彼らが助けを求めて叫ぶと神が答えてくださいます。神はモーセを指導者として選び、イスラエルをエジプトから救い出します。神は様々な奇跡を行い、エジプト王がイスラエルの民を解放するように導きます。そしてエジプトを脱出したイスラエルの民は、神が与えると約束した自由に生きることができる土地を目指して旅をします。

 ここには二つのポイントがあります。第一に神はイスラエルの民を窮地から救い出す神であるということ。神はご自身を、民を窮地から救い出す神として現されたということです。神はいかなる方か、と言われれば、神は窮地から人を救い出す神であるということです。

 第二に、神は救い出した民に自由に生きる土地を用意しておられたということです。神は窮地から救いだした民に、幸いに生きる場を用意しておられるということです。民は窮地から救い出され、新たに救われたものとして生きる場が与えられました。神は窮地から救い出すだけではなく、救い出した後、幸いに生きることができるように導かれるということです。イスラエルの民は自由に生きることができる土地を目指して旅をします。神はイスラエルの民に未来を用意しておられたのです。

 しかしその旅には困難が伴いました。困難がイスラエルの民を襲います。イスラエルの民の反応は二つです。一つは、こんな困難に遭うならエジプトにいた方がよかったと考えます。エジプトにいたときは、奴隷として生きることがつらくて神に助けを求めて叫んだのです。なのにエジプトにいたときの方がよかったというのです。そこに戻ろうとさえいうのです。

 もう一つの反応は、神に信頼し、神に助けを求め、自由に生きる土地を目指そうとします。神はエジプトにいたとき、大いなる奇跡を行ってイスラエルの民を救いだしてくださったのです。その神に信頼し、この困難も神は助けてくださると信じ、自由に生きる土地を目指そうとします。神が用意しておられる未来を目指すのです。

 ここで教えられることは、神は私たちを窮地から救い出される神であること。神はさらに、自由に生きることができる未来を用意しておられることです。その場合、その未来を目指すとき困難が生じるかもしれませんが、神に信頼して前進することが大切となります。自由に生きることができる未来を目指すのか、窮地にいた状態に戻ることを願うのか、です。

 聖書が伝える救いとは、神が用意して下さっている未来に生きることです。この未来を選ぶかどうか。神は窮地から私たちを救い出し、救いの神としてご自身を私たちに現される方です。そして私たちに、神が用意しておられる未来に生きるように招かれます。その招きに応じること、それが救われて生きるということです。ここに救いがあります。

 

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ニオイスミレ いい香りが漂います。

 

 

救いを必要とする理由

 聖書に描かれている罪を紹介してきました。
 私たちはなぜ、救いを必要としているのでしょうか。

 罪は神の裁きを招くから?

 罪は神の怒りを招くから?

 罪は滅びをもたらすから?

 だから救いが必要?

 だから救いが必要。本当? 

 そもそも救いって何?

 それが今の私の問い。

 福音って何?

 それが今の私の問い。

 

緊張感を感じた礼拝

 日曜はブログを休みにしているのですが、忘れないうちに書いておこうと思いました。礼拝では新型コロナウィルス対策の配慮がなされていました。家を出るとき用意しておいたマスクをうっかり忘れてしまいましたが、礼拝堂の入り口にマスクが提供されていました。

 今日は第一日曜日なので聖餐式が予定されていましたが、口に入れるものを配るということで、聖餐式は中止でした。讃美歌も一曲割愛でした。礼拝堂は上の方にある窓が開けられており、礼拝堂入り口のドアも開けられていて、換気にも注意が払われていました。

 礼拝後はクワイヤーの練習があるのですが、これは濃厚接触になるので、どうなるかなと思っていましたが、中止でした。ほっとしました。会堂の清掃も中止。礼拝を献げることに集中し、礼拝が終わったら、皆帰宅です。ただ長老会は開催されたようですが、時間は短くするとのことでした。

 説教もいつもより時間を短くするとのことでした。今週と来週の祈祷会は中止。韓国では、キリスト教系新興宗教の教会の礼拝に出席していた人から感染が広まったとのことですので、集会をどうするか、気を遣います。もし自分が現役の牧師であったらどうしただろうかなどと想像もしました。

 説教を聴きながら、私は東日本大震災のことを思い出していました。金曜日午後地震が起きました。津波の様子を見ていて心底驚きました。そして予定された聖書箇所からの説教をするわけにはいかない、この地震を受けての説教をしなければ、と考え、心が高ぶる中で説教の準備をし、説教をしたことを思い出しました。この時に感じた緊張感と似たものを今日感じました。

 

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色合いが気になって 散歩道にて