クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

罪の呪縛(続き)

 私は罪人であるという呪縛に私たちを追いやる言葉があります。それは宗教改革者ルターの言葉とされるものです。

私は義人にして罪人である。

 ルターの言葉とされていますが、真偽は不明。出典は明らかではないようです。インターネットでの検索では分かりませんでした。しかしルターの語った言葉として広く知られており、礼拝の説教でも聞くことのある言葉ではないかと思います。

 私はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされている義人です。しかし同時に現実の私は罪を犯す罪人です。義人にして罪人、それが私である、というのです。私は信仰によって神の前に義とされているが、現実には罪人である。罪人であるが罪赦され義人である。こう考える結果、私は罪人であるという罪意識の呪縛の中におかれてしまうのです。ルター自身は、自分は罪人であるという罪意識の呪縛の中にあって、キリストによって義とされるという福音を発見したのです。

 何が問題なのでしょうか。福音に対する無知が原因です。福音は救いを伝えます。イエス・キリストを信じる信仰により私たちは義とされます。神の前に義人です。そして現実に罪を犯すことも確かです。大切なことはまず、神は私たちを義人と見ていることです。神は私たちを罪人とは見ないのです。それなのになぜ、自分は罪人であると考えてしまうのでしょうか。これは実質的には、信仰者を義としてくださる神の救いの恵みを無にしています。

 第二に救いの恵みは、信じる者を義人と見なすだけではありません。神さまは、救いの恵みとして、私たちを聖なる者として下さいます。私たちは地上にある限り、罪から完全に自由になり、罪を犯さない人間になることはできません。しかし神さまは、罪を克服して生きる道を用意してくださいました。完全に罪を犯さない人間になることはできませんが、一つ一つの罪を克服し、聖なる者になっていく信仰の歩みが用意されているのです。これを「聖化」と言います。姦淫と殺人の罪を犯したダビデは祈っています。

神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。

 神さまは、私のうちに、あなたの内に清い心を創造して下さいます。清い心を求めて祈り、罪に打ち勝つことを切に祈り求めることが大切です。福音は、罪を犯さざるを得なかった私たち、つまり罪の支配下にあった私たちをイエス・キリストが罪から解放してくださったことを伝えます。パウロの祈りを紹介します。

エフェソ3:16~19
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 

  あるいは信仰者はどのような存在なのかを語っています。

エフェソ4:13
わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 

  このように成長できる、それが福音です。私たちは福音を知る必要があります。もっと自分で聖書を読むべきです。そして福音が何かを知ることが大切です。それは信徒だけではなく説教者もです。説教者こそ真剣に聖化に取り組むことが大切だと私は考えています。福音に根ざす聖化です。

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鹿は身近な存在です

 

 

 

 

 

 

罪の呪縛

 少なからぬクリスチャンが自分は罪人であるという意識の中に生きています。イエス・キリストが十字架で私たちの代わりに罪に対する神の怒りを受けて下さったと信じる人は罪が赦され義とされます。信仰者は神の前に正しい人とされます。これが聖書のメッセージです。福音です。なのに自分は罪人であるという思いに縛られているのです。

 キリスト者が罪の呪縛の中に置かれてしまう一つの理由はルターにあるのではないかと思います。ルターが生きていた時代、教会はあるお札を売っていました。以前はこれを免罪符と呼んでいました。当時、信仰者は年に一回教会に行って懺悔をする習慣がありました。懺悔をした後、一定の償いをする必要があったそうです。しかしお札を買えば、その償いをしなくて済むとされていました。しかもお札の効果は死ぬまで有効とされていました。お札を売るのは教会です。そうなると罪を真剣に受けとめることがなくなります。このお札さえ持っていれば天国は約束されたとなります。

 この状況に対して、ルターは行動を起こしました。ヴィッテンベルクにある城教会の扉に95箇条の提題を書いた文書を貼り付け、公開議論を求めたのでした。95箇条の一番最初に書かれている文がこれです。

「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『あなたがたは悔い改めなさい』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」。

 ルターがこの言葉を書いた背景には、罪の償いを免除するお札を教会が販売するという状況があり、罪が真剣に考えられない状況がありました。信仰者にとって悔い改めは大切であることをルターは主張したのです。

 問題は、この文章がひとり歩きをすることです。ルターのこの文章にある背景を無視して、この文章だけを引用して話をするとどうなるか、です。すると「イエス様は、信仰者の生涯が悔い改めであることを求めている」となります。すると悔い改めが信仰者の生涯のテーマとなってしまいます。私たちはいとも簡単に自分の罪をあれこれ心に思い起こし、私は罪深く、悔い改めの生涯を送る者であると考えるようになります。説教でキリスト者の生き方が語られると、自分はそれを実行できないし、時には実行したいと思わない心の頑なな罪人であるという思いが心を満たすのです。昨日のブログに罪の呪縛に捕らわれた人のことを書いておきました。

 信仰者は罪の赦しを受けるだけでなく、神の救いの恵みによって、罪に打ち勝ち聖なる者として生きていくことができます。信仰はもっと喜ばしいものです。その事が忘れられてしまうのは本当に残念です。パウロは勧めます。

「いつも喜んでいなさい」。

 十字架にかけられる前の晩、イエス様は弟子たちのために父なる神に祈られました。

「真理によって彼らを聖なる者として下さい」(ヨハネ17:17)。

 どんなにすぐれた人の言葉でも、その言葉がひとり歩きをすると人を惑わすことになります。ルターの言葉も、ひとり歩きさせると人を罪意識の呪縛に捕らえてしまいます。

 また「イエス様は信仰者の生涯が悔い改めであることを願っている」と説教で語られたのを求道者の人が聞いたら、彼はどうするでしょうか。人生のテーマが悔い改めであるような信仰生活を送りたいとは思わないでしょう。

 

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ホトケノザ 散歩道で

 

 

 

心が痛むこと

 心が痛むことがあります。つい先日も心が痛みました。それはある信仰者の文章を読んでのことです。

一日の終わりがくれば、「為さざりし罪をお赦し下さい」と祈ることがほとんどです。「そうしなければならない」「そうすることが神さまの一番およろこびになる道だ」と思いながらもそれができない。「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。

 一日の終わりにこのような思いを抱いて終わる、切ないです。また私が最初に牧会した教会で、ひとりの老信徒とが言いました。

先生、私の罪は赦されている、と説教でいつも語って下さい。

 最後に牧会した教会で、私が赴任してしばらくしてからある方がおっしゃいました。

説教で罪の赦しは語られるけど、でもあなたがたは罪人だと言われる。

 福音とは喜ばしい知らせなはずなのに、自分は罪人であるという意識に支配されているのです。このような意識を持つ人は少なくないと私は思っています。どうしてこのようなことになるのか、考えています。このような意識を持つ限り、伝道はできません。このような意識を持つ事態に人を誘うことはできませんし、誘われても人は断るでしょう。クリスチャンにならなければ罪意識に悩むことはないのです。誰が好き好んで罪意識に悩む信仰の世界に入ろうとするでしょうか。

 今日ある神学書を読んでいて、この問題は根深いなと思いました。

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馬酔木(あせび)の木 独特の香りがあります

 

 

聖書が語る救いについて(6)教会に生きる(続き)

 前回に続いて、教会に属し、信仰に生きることが救いであることを具体的にお話しします。

 第一に信仰者は教会に集い、他の信仰者と共に神さまに礼拝をささげます。礼拝の中で説教を聞きます。つまりキリストの福音を聞きます。キリストの福音を聞くことなしに救われて生きることはできません。救われて生きる、それが救いです。救いに生きるために必要なことは福音を聞き続けることです。福音が私たちを生かすからです。

 礼拝に行かなくても、個人的に家で聖書を読めば福音を知ることはできるとの意見もありますが、それは無理だとは言いませんが、かなり困難であると私は考えています。神さまは福音を宣べ伝える者を召し出し、彼に語らせるのです。召された者は聖書を読み祈り、福音を証しとして説き明かします。私たちは教会の礼拝で福音を聞きます。そして福音を聞くことを喜び、神に祈り神を賛美します。ここに信仰者の幸い、喜びがあります。この幸い、喜びなくして救いはありません。

 第二に教会は信仰者の交わりです。私たちは一人で信仰に生きるのではなく、信仰者の交わりの中で信仰に生きます。信仰者が励まし合い慰め合います。コロサイ書3章には信仰者の交わりについて次のように書いています。

 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

 信仰者の交わりとは、互いに愛し合う交わりです。幸いな交わりであり、喜びの交わりです。イエス様はこう教えておられます。私たちは教会で愛すること、愛されること、その喜びを味わいます。

ヨハネ福音書13章34~35節
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 教会は福音を宣べ伝える働き、教会に属する信仰者を育てる働き、この世に向けての証しの働きをします。信仰者が共に協力して働きます。そこで求められるのが愛です。上に引用したコロサイ書は愛とは何かを具体的描いています。互いに愛し合う交わり、それが教会です。この交わりの中で生きてこそ、私たちは愛する者へと育てられていきます。

 第三に私たちは教会からこの世へ遣わされます。言い換えると世にあって信仰者としての使命に生きることになります。たとえば、私たちは「家庭」に遣わされます。家庭は生活の中心的な場ですが、私たちは教会から家庭に遣わされます。家庭では、夫婦が愛し合い、親子が愛し合います。親は子を育てます。子は親を敬います。主に仕える家庭の形成という使命に私たちは遣わされます。

ヨシュア記24章15節
わたしとわたしの家は主に仕えます。

 あるいは私たちは職場に遣わされます。職場の人との交わりがあり、共に仕事をします。共に仕事をする人たちを愛し、協力し、成果を上げるために誠実に仕事を果たします。私たちは善いわざをして生きていくように使命を与えられています。

エフェソ2:10
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

マタイ5:16
あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 私たちは世に遣わされます。そこには様々な働きがあります。神さまは私たちに賜物を与え、ふさわしい働きができるように導き、力を与えてくださいます。私たちは教会から、この世に遣わされて生きていきます。教会あるいは神の家族に属してこそ、私たちは世に遣わされてよく生きることができます。

 

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教会への入り口

 

聖書が語る救いについて(5)教会に生きる

 多くの人は、自分が生きる上での拠り所として信仰を求めているのではないでしょうか。たしかに信仰にはその役割があります。しかし聖書が与える救い・神さまが与える救いは、人生の拠り所以上のものだと私は考えます。

 イエス・キリストを信じ洗礼を受けた人は教会に属し、教会の一員として信仰生活を送ります。教会はキリストの体です。教会に属するとは、組織の一員になること以上にキリストの体の部分になることを意味します。しかもキリストの体には、他の信仰者たちもキリストの体の部分としています。信仰者はキリストの体の部分として、キリストを教会のかしらとして、他の信仰者と共に、一つになって生きていきます。

コリント一12:7
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

 

エフェソ2:17~21
 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

 信仰者は、聖なる民に属する者、神の家族であると書かれています。信仰者は神の家族に、聖なる民に、キリストの体に属して生きていきます。ここに神さまが備えてくださった救いがあります。信仰者はひとりで生きるのではなく、キリストを中心にして、信仰に生きる仲間と共に生きる、そこに救いがあるということです。

 残念ながらこのことはすぐには理解されないかもしれません。教会の一員として、神の家族の中に生きる幸いが現実にはなかなか体験されないからです。

 私が牧師として働いていたとき、「真の教会のしるし」を学びました。真の教会のしるしとは、第一に福音が正しく説教されていること、第二に聖礼典(洗礼、聖餐)が正しく執行されること、第三に戒規が正しく執行されること。

 そして「教会形成」という言葉もよく聞きました。真の教会のしるしを有する教会を目指すことを目標としました。この真の教会のしるしは、宗教改革の時、カトリック教会に対してプロテスタントの教会はどのような教会なのかを明らかにするものでした。もちろん間違っていません。しかし現代に生きる私たちは、聖書が語る教会像、しかも現在の私たちが福音に生きるときに形成される教会像を目指す必要があると思います。この努力はいまだ十分になされていません。

 ちなみに私は最後に牧会した教会で、教会のビジョンとして『私たちは神の家族』を掲げました。教会の雰囲気が和やかになったように感じています。

エフェソ1:23
 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 教会はキリストが満ちておられる場だというのです。キリストが満ちている場に身を置くことができる、これは大きな救いだと思います。

 

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存在感のある沈丁花

 

 

 

 

 

模範に気づく

フィリピ 3:17
兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

 私には説教で時々語ることがあります。それは何かというと、信仰者の交わりとは、お互いに相手を模範としあう交わりであるということです。他者を模範とする謙遜、他者に対して模範になろうとする謙遜。模範になろうとすることは真の謙遜だと思います。自分が人より何かの点で一歩でも前を歩いていれば、模範になれます。自分より一歩先に歩んでいる人を模範とすることができます。

 教会が、このような信仰者の交わりであれば、何とすてきな教会であることか。このような教会に多くの人が集まってくるのではないか、と信じています。

 それでは、私は誰を模範としているのか。私が模範としてきたのはイエス様であり、パウロです。私のずっと前を歩いています。今日、信仰の兄弟からのメールがあり、その中で、妻と一緒に聖書を通読し、20年で数回聖書全体を通読したと書かれていました。これを読んで、そうだ、模範にしようと思いました。模範を与えられる、感謝です。いきなり聖書全巻通読はハードルが高いので、妻と相談をして、まず聖書のどれか一つの文書を読みたいと思います。

 

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カタバミ科 散歩道で

 

 

聖書が語る救いについて(4)キリストと同じ姿に

 救いとは、神が用意してくださる未来を生きること、そしてそれは神の国を目指す旅であると私は考えています。私にとって大切な、そして信仰者として生きることを考えるとき、非常に大切な聖句があります。

コリント二3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

フィリピ3:21
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

ヨハネ一3:2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

 どの聖句も、わたしたちが「主と同じ姿」「御子に似た者」に造りかえられることが語られています。「主」とは、イエス・キリストのことです。神の国に迎えられるのにふさわしい人とは誰でしょうか。それは罪も汚れもない人です。私たち人間は神の国に迎えられるのにはふさわしいものではありません。しかし私たちは最終的に「主と同じ姿」に変えられ、「御子に似た者」とされます。かくして神の国に迎えられます。

 私たち信仰者にとって生きるとは、キリストに似た者となるという道筋を歩むことにあります。イエスと同じ姿に変えられるという道筋を歩む、それがキリスト者の生涯であり、神の国を目指す旅です。神さまは、イエス・キリストを救い主として遣わし、私たちを救ってくださいました。信仰に入るきっかけは人それぞれです。信仰に入るとは、主と同じ姿に変えられる歩みをする人生に招かれるということです。人生は、キリストに似た者となっていくという旅です。

 神さまは、そもそもご自身に似せて人を造られたと創世記にあります。そして神は、真の人として御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。罪に堕落した人間は救われ、本来の人間の姿を取り戻すのです。それが救われて生きるということであり、それはキリストに似た者となる歩みをすることです。そこに人間らしい歩みがあります。

 それゆえパウロは語ります。

コリント一11:1。
わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

 パウロに倣うとはキリストに倣うことに他なりません。キリストに倣う、それはキリストと同じ姿に変えられることを意味します。

 私たちはこの世を旅します。キリストを信じない人と同じような環境・状況の中を歩みます。信仰があるからと言って、困難が起きないわけではありません。約束の地を目指したイスラエルの民も、荒野を旅するとき、様々な困難に直面したのです。困難は神に信頼することを学ぶときでした。私たちは、キリストに倣う者として、この世に生きる時の様々な問題に対処し、また神さまから使命を与えられ、それぞれこの世の歩みをします。そして神の国を目指して歩んでいきます。

 神の国を目指す旅、キリストに似た者に変えられていく歩みをするように、私たちは神さまに招かれています。それが救われて生きるということです。そして私たちは復活し、神の国に迎えられたとき、神の国にふさわしい者に最終的に変えられます。これが救いの完成です。

 

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オランダミミナグサ 散歩道