クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

リモート祈祷会

 今日は水曜日、教会の祈祷会の日です。新型コロナウィルスによる感染拡大防止のために、しばらく休会していましたが、奈良高畑教会では最近リモート祈祷会を行っています。インターネットでつながり、参加者の顔がパソコンの画面に映し出されます。今日で三回目です。藤川牧師が努力してくださり可能となった祈祷会です。互いの顔を見ることができるってありがたいことだと思いました。

 礼拝もインターネットを利用してライブ配信(実況中継)がなされています。インターネットを通しての礼拝のライブ配信は、礼拝に来ることができなくても、スマホさえあれば、その場で礼拝に参加できるので便利です。

 奈良高畑教会では、6月からの礼拝の公開を目指しています。学校の授業再開を目安として礼拝の開始を検討しています。信仰者が共に集うことの喜びをあらためて教えられました。

 24日の日曜日、奈良高畑教会の礼拝が終わった後、広島にあるカトリック教会のミサをインターネットで見ました。一度カトリック教会のミサに出席してみたいと思っていたので思いがけない体験でした。やはり私はプロテスタントが自分に合っていると思いました。プロテスタント教会は説教を大切にします。聖書は神の言葉であり、その説き明かしは大切ですし信仰の糧となります。さらにどんな説き明かしがなされるのか、霊的な楽しみです。カトリック教会のミサでは、日本語と英語で短い説教がされていましたが、私には物足りませんでした。

 今日の朝日新聞の「折々のことば」に短い詩が紹介されていました。印象的なので紹介します。

失うという事を 知らない人がいる
得るという事を 知らない人がいる
何だか最近は そんな可哀そうな人ばかり

——ブッシュ孝子

 

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ユウゲショウ 散歩道で

 

 

聖書はなぜ、罪を問題にするのか

 ふっと疑問が湧きました。「聖書はなぜ罪を問題にするのか」。

 聖書には「最後の審判」の教えがあり、罪を犯した者はその罪が裁かれると教えます。イエス・キリストによる救いを受けた者は罪が赦されているので、最後の審判では犯した罪は裁かれません。しかし罪の赦しを受けていない者はその罪が裁かれます。その人は永遠の滅びに入れられると聖書は告げています。

 聖書はなぜ罪を問題にするのでしょうか。罪は死後の生の行方を決定するから問題となるのでしょうか。確かにそういう面はあります。でもそれは聖書が罪を問題にする主たる理由ではないと思います。罪を犯すことは悪いことであり現実に神の怒りを招くことがあります。旧約聖書には神がイスラエルの民の罪に対して怒りを発している場面がいくらでもあります。神の怒りを受ける、だから罪が問題となるのでしょうか。それもあると思います。しかしもっと別な理由があると思います。

 イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態という苦境からの救いを求めて神に叫びました。神は彼らの願いを受け入れ、大いなる御業をなさり、彼らをエジプトから救い出しました。神は彼らを自由に生きることができる土地そして実りの豊かな土地へ連れて行くと約束されました。イスラエルの民はそこを目指して旅をします。旅の中で困難が生じると民は、不平を言い、文句を言います。若い頃聖書を読んだとき、イスラエルの民はなぜ神さまに信頼して助けを求めないか、と思いました。文句なんか言わないで、素直に神さまを信じ神さまに助けを求めればよかったのにと思ったことです。僕なら、神さまに助けを求めると考えたものです。

 神さまにはイスラエルを救わなければならない理由はありませんでした。しかし苦しんでいるイスラエルの民を慈しみ、憐れみ、彼らを救い出されました。そこには神さまの願いがありました。神さまはイスラエルの民を神の民となるように招き、ご自身は彼らの神となるつもりでした。神さまはイスラエルの民を愛し、大切に思い、彼らに祝福を与えようとされました。だから、エジプトから救い出し、約束の地へと導こうとされました。そしてイスラエルの民が神さまを信頼し、神さまだけを神として畏れ敬うことを願われたのです。つまり神さまはイスラエルの民を愛し、イスラエルの民も神さまを愛することを願われたのです。神は愛なり!

 しかしイスラエルの民は、そのような神さまの思いは理解できませんでした。エジプトでの奴隷状態のあまりのつらさゆえに神の助けを求めて叫びました。神さまは彼らの叫びを聞き、彼らを救いました。奴隷状態から解放され、イスラエルの民は自由に生きる土地を目指して旅を始めました。イスラエルの民はうれしかったことでしょう。でも思いがけないことが起きました。その旅は荒野の旅でした。荒野には食物も飲み水もないのです。旅をするうちに飢え渇きが生じます。どうしたらいいのか。自由を得た後での試練ですから、試練がよけいに辛く、苦しく感じます。つい愚痴が出たとしても不思議ではありません。

 人間の心には、神というのは人間を助けるものだというような思いが潜んでいるように思います。ですから人は神を祀り神を敬います。そんな心が人間にはあります。イスラエルの民にもあったことと思います。

 荒野の旅をする中で困難が繰り返し起きると、さすがに嫌になってしまい、将来についての不安が増し加わります。約束の地を目の前にしたときイスラエルの民は最大の試練を味わいました。偵察隊が、これから行く土地は実り豊かな土地で素晴らしいところだと報告します。しかしそこには強うそうな人たちが住んでいて、そこに住むには戦いが必要だと知ったとき、彼らはついに堪忍袋の緒が切れたのです。

民数記14:1~3
 共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ」。

 そして神さまもイスラエルの民に対して堪忍袋の緒が切れました。

民数記14:11~12
主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう」。 

 罪とは何でしょう。神を憎むことです。約束の地を与えると約束し、約束の地に導かれる神をイスラエルの民は最後に憎んだのです。神に対して否!を言ったのです。約束の地に行くのはいい、でもなぜ、次から次へと困難が起きるのだ。今度は妻子を失うかも知れない。これならエジプトで奴隷であった方がまだましだとイスラエルの民は言ったのです。

 神に信頼して約束の地に行こうと語ったヨシュアやカレブをイスラエルの民は石で打ち殺そうとしました。イスラエルの民は神に従うなんてもういやだ!と神を憎んだのです。ここに本当の罪があります。罪は神と信仰者の交わりを破壊するように働くのです。だから聖書は罪を問題にするのです。だから神さまは救い主イエス・キリストを送られたのです。

 そしてクリスチャンにも神を憎む心があります。クリスチャンにも自己中心的な心があり、神さまの教えが自己中心的な心と衝突するとき、クリスチャンといえども神さまを憎みます。でも自分が神を憎んでいるなんて思いたくありません。それであるクリスチャンたちは「私は罪深い者です」と言います。そして「イエス様のおかげで赦されているので感謝」と言います。そして神さまの教えには従おうとしないのです。心のそこでは神さまを憎んでいるのです。

 だから聖書は罪を問題にするのです。

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仲よく咲いています

 

 

 

 

 

 

 

実はイスラエルも(5)そもそも信仰に生きるとは

 荒野の40年の生活を終え、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は神が与えると約束した地に入ります。イスラエルの民は戦いをして土地を獲得していきます。エリコの町の攻略は興味深い物語です。エリコはイスラエルの攻撃に備えて城門を固く閉ざしました。その時、神はヨシュアに命じるのです。

ヨシュア記6:2~5
見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。

 神ははっきりとした指示をヨシュアに語ります。ヨシュアは民に神の命令を伝え、これを実行しました。神は言葉をもってイスラエルの民を導く方としてご自身を現されました。イスラエルの民は神が彼らに語りかける方であることを確認することができます。六日間、毎日エリコの町を一周します。そして七日目、鬨の声を上げると城壁が崩れ、イスラエルはエリコの町を攻略しました。イスラエルの民ははっきりと知りました。

  • 神は生きて働かれる方である
  • 神は具体的に自分たちに関わり助けてくれる神である

 その後イスラエルの民は今のパレスチナの地を獲得し、土地を分割して部族ごとに定住することとなりました。指導者ヨシュアが死んだ後、問題が起きました。

士師記 2:8~14
 ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。
 その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。

 何が起きたのでしょうか。イスラエルの民の世代交代が起きたのです。神を知らず、神の御業も知らない世代が現れたのです。すると彼らは周辺の民族の神を礼拝するようになりました。これは「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」との十戒を破るものです。その結果、彼らは神の怒りを買いました。神はイスラエルを略奪者の手に任せたので、イスラエルは苦境に立たされました。すると神はイスラエルの民を救い出そうとします。

士師記2:16~19
主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。

 士師記には、イスラエルの民が他の神々に従い、神の怒りを買い、苦境に立たされる、すると神はまた士師を立てイスラエルを救う、ということが繰り返されたことが書かれています。

 このような聖書を読んで教えられます。

  • 第一に信仰の継承がなされなかったということです。特に神さまがイスラエルのために何をしてくださったのか、それが伝えられなかったことです。
  • 第二に、人はいとも簡単に偶像礼拝に陥るということです。
  • 第三に聖書の神信仰が独特の信仰であることです。

 まずイスラエルの民の間で信仰の継承がなされませんでした。神がいかなる方か、何をしてくださったのか、神に対してどのような態度で接したらよいのか、など伝えられませんでした。現代と違い、紙に書いて記録することが簡単にはできませんでした。口で伝えることになります。それがうまくなされませんでした。必然的にイスラエルの民は周辺の民族の人たちの信仰にならうこととなりました。すなわち偶像礼拝に陥りました。

 偶像礼拝は十戒に違反します。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。ではなぜ、イスラエルの民は偶像礼拝に陥ったのでしょうか。人間にとって偶像礼拝をすることはある意味で自然の成り行き、必然といってよいと思います。つまり人間は全能の存在ではなく、物事を自分の思い通りにすることはできません。農耕に生きる人は自然災害が起きれば困窮します。健康が必ず守られるとは限りません。思いがけない事態が起きたら無力なのが人間です。そこで助けを求めて祈りたくなります。神でも仏でも何か絶対的なものにすがりたくなります。逆に特定のものを神と崇め、それにすがるということが礼拝ということで行われるようになります。

 そしてこの場合の信仰は、神は人間を助けてくれればよいというものです。助けてくれることを期待して人々は神を拝むのです。神を祀(まつ)るのです。そこに宗教的な儀式が生まれます。このような信仰は今も至る所に見られます。私が住んでいる奈良には神社仏閣が多く、たくさんの観光客が手を合わせています。手を合わせて祈り、手を合わせる相手が何らかの形で自分の願いを聞いてくれることを願います。それだけを期待します。商売繁盛、家内安全、恋愛成就、受験合格・・・・。

 あらためて聖書が伝える信仰は独特だと思います。聖書の神は人間に語りかける神です。人間と関わろうとする神です。人間を愛し、人間を救い、人間と関わる神です。神を信じるとは、この神の語りかけを聞き、神の働きかけを受け、それに応答するということです。そしてこの神に語りかけ、神に働きかけ、神に信頼して生きるということです。つまり神との交わりに生きるのです。聖書の信仰は独特です。

 イスラエルの民は、この神を信じる独特の信仰、神との交わりに生きる信仰へと招かれました。この神との交わりに生きることがキリスト教の信仰でもあることは、きちんと教えられる必要があると思います。教えられなければこの信仰理解に達することはむずかしいからです。

 

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お地蔵さんがあちこちにあります

 

 

実はイスラエルも(4)未熟な信仰の民

 イスラエルの民はエジプトを脱出するときは「意気揚々と」(出エジプト記14:8)出て行きました。神への感謝があったと思います。さらに海辺に宿営し、背後から迫ってきたエジプト軍を神が壊滅したとき、イスラエルの民は「主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」のです(出エジプト記14:31)。

 しかしその後マラに着きました。水場はありましたがその水は苦くて飲むことができませんでした。すると民は不平を言いました。モーセは神に祈り「一本の木を水場に投げ入れなさい」との神の指示を受け、その通りにすると水は飲めるようになり、民の渇きは癒やされました。さらに旅をし、シンの荒野に入ると、こんどは食べ物に困りました。すると民が言います。

出エジプト記16:3
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」。

 すると神は天からパンを降らせるとモーセに告げます。朝起きると民はマナ(パン)を得ることができました。また夕方には「うずら」が飛んできて、これを食べることができました。飢えは解決しました。

 イスラエルの民は神がイスラエルに与えると約束した地に向かって旅を続けますが、困難が起きます。すると民は、不平・文句を言います。しかし神はその問題を解決されます。こんなことが繰り返されます。そしてシナイ山の麓に着き、そこでイスラエルの民は神と契約を結びました。さらに旅をして、約束の地を目の前にするところまで来ました。モーセは偵察隊を送り、約束の地を調べさせました。偵察隊は報告します。すばらしい土地です。実りが豊かな土地です。しかし強そうな民が住んでいます、と。すると民は言います。

民数記14:2~3
「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ」。

 しかし、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは民全体に訴えます。

民数記14:8~9
「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」。

 イスラエルの民は、ヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしました。すると神が言います。

民数記14:11
「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか」。

 この結果、不平を言った人たち、つまりイスラエルの民の大人のほとんどは約束の地に入れませんでした。神はイスラエルの民を荒野で40年間生活させ、毎日マナを降らせ、神こそ、イスラエルの民を生かす民であることを学ばせたのです。エジプトを脱出したとき大人だった者たちはみな、荒野の40年の生活のあいだに死にヨシュアに率いられて約束の地に入ったのは、その子たちでした。

 神からすれば、エジプトの地で奴隷の苦しみからの救いを求めて神に叫んだ民の訴えを聞いて、彼らをエジプトから脱出させたのです。そして自由に生きることのできる土地、乳と蜜の流れる地、つまり生きるのにすばらしい土地へ連れて行くと約束されたのです。エジプトを出て約束の地に行くまでの旅の中で、困難がありました。特に食べ物と飲み水の欠如。神は、不思議な仕方で水を与え、食物を与え、困難からイスラエルの民を助け、約束の地に導こうとされたのです。しかしイスラエルの民は困難が起きるつど、こんな目に遭うならエジプトにいたほうがよかったと不平を言いました。

 神はイスラエルの民が、神は彼らを救う神であることを学び、困難に直面しても神に信頼して助けを求めることを期待しました。神に信頼し、神との交わりに生きる神の民になってくれればよかったのです。そのために彼らを助けました。時には彼らを赦しました。

 イスラエルの民からすれば、エジプトでの奴隷の苦しみからの助けを神に求め、神は彼らをエジプトから解放してくれたことは喜びだった。神は実りの豊かな地、自由に生きることのできる土地へ連れて行くと約束したこともうれしかった。イスラエルの民は意気揚々とエジプトを出た。しかし困難に直面します。すると彼らは不平を言うのです。
 あれだけすごい御業をなす神に導かれて旅をしているのになぜ困難に直面するのか。神はもっと快適な旅をさせてくれていいのではないか。困難が一回だけならまだしも、何回も起きると何のためにエジプトを脱出したのか分からなくなる。実り豊かなすばらしい土地を目指しているとはいえ、困難が繰り返し起きるのでは、安心して旅はできない。いやかえってストレスが生じる。エジプトにいたときの方がよかったと言いたくなるくらいだ。

 約束の地を前にして、これから行く土地には強そうな民がいるという。闘うことになれば犠牲者が出るにちがいない。勝つとは限らない。妻子を失ったらと考えるといてもたってもいられない。前進するなんて無理だ。

 神の民として生きるように招かれたイスラエルの民。あれだけ神の大いなる御業を体験したのなら神の民として生きる決心をしてもよさそうなのに。しかし彼らにとって神というのは困ったときに助けてくれればいいのであって、困難を防げない神なんて真っ平御免!イスラエルの民はこんな気持ちだったのでしょう。神の民というアイデンティティーに生きるという信仰があるなんて想像もできなかったのだと思います。私は自分の生きたいように生きる、神は困ったときだけ助けてくれればいいし、平穏な生活を送れるように守ってくれさえすればいい。これがイスラエルの民の信仰だったと想像します。

 神がイスラエルの民に求める信仰は、神に信頼し、神との交わりに生きる信仰。これが聖書が伝える信仰です。この信仰にイスラエルの民は招かれたのですが、応答することはできませんでした。

 

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イモカタバミ 散歩道

 

実はイスラエルも(3)神の民として成長する

 イスラエルの民は神と契約を結び、神の民として生きていくことになりました。イスラエルの民はアイデンティティーに生きる民でした。当初イスラエルの民は、神の民として生きていくことがどういうことか分かっていませんでした。彼らは神の民として誕生したばかりでした。これから彼らは神の民として成長していくのです。イスラエルの民は、

  • 神が彼らに対して好意を持つ神であることを信じ、この神に信頼して生きるようになる。
  • 神との関わり、神との交わりに生きるようになる。神を信じるとは困っているときに助けてもらえばそれでよいというものではない。
  • 神を喜び、神の戒めを喜ぶようになる。神の戒めは人間を幸せにすることを目的としたものであることを知るようになる。

 エジプトを脱出したイスラエルの民は、神が彼らを救う神であることを体験しました。神はイスラエルの民に「あなたはわたしの宝の民である」と語り、イスラエルを大事にする神にであることを宣言されました。

 イスラエルの民はエジプトを出てシナイ山の麓に到達する前にいくつもの神の救いの御業を体験しました。最初は葦の海の奇跡、エジプト軍からの救いです(出エジプト記14章)。マラの苦い水を飲めるようにする奇跡(同15章)。食物に困った民に毎朝マナを与える奇跡(16章)、飲み水が得られない場所での飲み水を与える奇跡(同17章)。アマレク人に対する戦いの勝利(同17章)。約束の地を目指す民は試練と思える困難が生じますが、すべて神は御業を行い彼らを助けました。

 民は、神が彼らを救う神であることを体験することができました。繰り返し神の救いを体験したイスラエルの民は、自分たちが神にとって大切な民であり、神は自分たちを見捨てることなく困難なときには助けてくれる神であることを学習することができました。それゆえ困難に直面したときは、神に助けを求めればよいことを学習できました。

 イスラエルの民は学習し神の民として成長することができたはずなのです。聖書を読むと、彼らは順調に成長したとは限らないことが分かります。

 

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近くの緑地園

 

実はイスラエルも(2)イスラエルの民は神のみ業を見た

 イスラエルの民は神と契約を結び、神の民として生きる決心をしました。イスラエルの民はその契約を結ぶように神に強いられたとは思えません。なぜなら彼らは神のみ業を見ているので、契約を結んでも不思議ではないと思われます。

 イスラエルの民はどのように神を体験したのでしょうか。人は神ご自身を見ることはできません。しかし神が行動した結果を見ることはできます。それを見て、それを偶然起きたことと考えることができますし、いや神が働いておられたのだと考えることもできます。後者は信仰の立場です。

 神はエジプトにおいて大いなる御業を行いました。それはエジプト人にとっては大いなる災いでした。しかしイスラエルの人たちがどの程度神の大いなる御業を体験したのかは明確ではありません。

 確かなことは奴隷であったイスラエルの民がエジプトから解放されたことです。奴隷として苦しんでいたイスラエルの民は神に助けを求めて叫びました。ですから神のおかげでエジプトを脱出できたことは確かです。

 またエジプトを出てからはいくつかの神の存在を示すしるしがありました。第一に約束の地に向かう民を導いたのは、昼は雲の柱、夜は火の柱でした。これはイスラエルの民が目で確認できました。

出エジプト記13:21~22
主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。

 そして忘れがたいのが海の奇跡です。イスラエルの民をエジプトから出て行くように命じたエジプトの王は後悔し、連れ戻そうと兵を率いて後を追います。イスラエルの民が海辺で宿営していると背後からエジプト王の軍隊が迫ってきました。イスラエルの民はパニックに陥ります。しかしモーセは神に祈ります。そして彼が杖を高く上げると海が二つに分かれ、分かれた間をイスラエルの民が歩いていきます。そして向こうの地に着きます。エジプト軍はイスラエルの民を追いかけてイスラエルの跡を追います。しかし二つに分かれた海がもとにもどり、エジプト軍は溺れて死んでしまいます。今一度エジプトから救われます。イスラエルの民は神の目覚ましい救いの働きをありありと見たのです。

イスラエルの民は神が与えてくださった救いを喜び、神を賛美しました。

出エジプト記15:1~5
主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主こそいくさびと、その名は主。
主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
深淵が彼らを覆い
彼らは深い底に石のように沈んだ。

 イスラエルの民がさらに旅をして荒野を進んでいくと飲み水に困ることが起きました。また食物に困ることも起きました。すると神はイスラエルの民に不思議な仕方で飲み水と食べ物を与えました。出エジプト記15~17章。イスラエルの民は神の助けを体験します。

 イスラエルの民はやがてシナイ山の麓に着きます。シナイ山は雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛が鳴り響いて、山は煙に包まれていました。イスラエルの民は神の臨在を覚えました。

 以上イスラエルの民は、神を体験したのです。しかも自分たちを助けてくれる神として、神を体験しました。そして神はイスラエルの民に、神の民として生きていくように招かれたのです。イスラエルの民はこの招きに答え、神の民というアイデンティティーに生きることを選びました。イスラエルの民は、神の民として歩むことを決心し神と契約を結びました。イスラエルの民は、神の民として生きていくこと、神さまの教えに従うことを約束したのです。

 

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散歩道にて

 

アイデンティティーとは

 ブログを読んでくださっている方から、アイデンティティーという言葉がわかりにくいとの指摘がありました。日本語に訳すのがむずかしい言葉なので、そのままアイデンティティーという言葉を使っています。心理学、精神医学などでよく用いられる言葉とのことですが、だんだんと一般的にも用いられてきたように思います。

 まず問いです。「クリスチャンとはどういう人なのか」。この質問を誰かにすれば、それなりに答えが返ってくると思います。ある人は、クリスチャンとは日曜日に教会の礼拝に行く人という答えをするかもしれません。別な人は、クリスチャンって聖書を読みお祈りをする人だと答えるかもしれません。クリスチャン自身も、クリスチャンとはこういう人、というイメージを持っていると思います。たとえば愛を実践する人、社会に役立つ奉仕をする人。行いが立派な人など。色々な答えが返ってくると思います。マザーテレサのように貧しい人のために奉仕をする人というようなイメージもあるかもしれません。

 私自身は以前は、清く正しい人というようなイメージを持っていたように思います。また聖書を読み祈る人というイメージも持っていました。

 クリスチャンのアイデンティティーを語る人はまだ少ないと思います。クリスチャンってどんな人なのか、クリスチャンも牧師もそれぞれのイメージを持っているのではないかと思います。また礼拝説教でクリスチャンの生きかたが教えられると、それによってクリスチャンのイメージが作られていきます。

 そこでクリスチャンである自分自身と自分が抱くクリスチャンのイメージの違いがあるとするなら、その違いをどう受けとめるかという問題が生じます。自分がそのイメージに到達していないとクリスチャンとしての自分を喜ぶことができないかもしれません。「私は罪深いクリスチャン」「ダメなクリスチャン」と自分を卑下することがあるかもしれません。その逆に、私はクリスチャンとしていい線を行っていると自分を誇らしく思う人もいるかもしれません。

 クリスチャンとはどういう人のことを言うのか。聖書はどう言っているのか。それを明確にすることは、クリスチャンにとって有益であると私は考えます。自分がどういう信仰者を目指せばいいのか、明確になります。自他共に抱くクリスチャンのイメージに左右されることがなくなります。

 私の経験では、現実の自分と自分が抱くクリスチャンのイメージとの違いを感じ、自分を卑下する信仰者が多いように感じています。説教でクリスチャンの生きかたが説かれると、自分がそこに到達していないと思うと、ますます自分を卑下してしまうのです。これでは家族にもクリスチャンになることを勧めることはできません。

 そこでクリスチャンとはどういう人のことをいうのか、聖書が語るクリスチャンの特徴を明らかにしたいと思っています。クリスチャンのアイデンティティーとは、クリスチャンとはどういう人のことを言うのか、その特徴を言い表したものということができます。

 もう一つ知っていただきたいことは、洗礼を受けた人は、クリスチャンのアイデンティティーをもつ人へと生まれ変わるという信仰的事実です。救いの恵みとして、アイデンティティーを受け取るのです。アイデンティティーで示されるクリスチャンになる努力をするのではないのです。アイデンティティーが示すクリスチャンに生まれ変わっているのです。そしてここからクリスチャンの生活が始まります。

 代表的なクリスチャンのアイデンティティーは「神の子」です。クリスチャンは努力して神の子になる必要はありません。神さまの教えを守って神さまに「神の子」と認めてもらう必要もありません。クリスチャンは神の子にされたのです。だから祈る時は、天の父よ、と呼びかけて祈ります。クリスチャンになるとは神の子にされるということです。神の子として生き始める、それが信仰生活です。

 クリスチャンのアイデンティティーを知ることはうれしいことだと私は信じています。また私は喜んでいます。

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ヒメオモダカ(水生植物) 散歩道