クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(24)新しい命に生きる-2

 クリスチャンは新しい命を与えられています。新しい命に生きることができます。神さまが与えてくださる命ですが、この命は栄養を必要とします。すなわち神の言葉です。私たちが神の言葉を糧として食べていくとき、この命は働きます。

テサロニケ一2:13
このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

 ここでは、福音を伝える説教が神の言葉とされています。説教で聞く神の言葉を受け入れるとき、それは受け入れる者の中で働くとあります。神の言葉が働く、それは私たちが神から与えられた命に生かされることを意味します。

ヘブル 4:12
というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

 ここにも神の言葉は力を発揮するとあります。神の言葉は私たちを導き、私たちを生かします。そしてイエス様は教えられました。

マタイ4:4
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

 クリスチャンが神の言葉によって生きようとするとき、その神の言葉は私たちのうちに働き、私たちを生かします。神の言葉によって生きるためには聖書を読む必要があります。説教は大切です。でも説教は週に1回。だから、日々聖書に親しみ、神の言葉によって生きるのです。聖書こそ神の言葉です。食事は毎日必要なのです。

 大切なことは、御言葉を知識として頭の中にためることではなく、御言葉を行うことです。

ヤコブ 1:22
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

 聖書を読み、どのように御言葉を行うのか、色々な方法があると思います。人それぞれの読み方でよいと思います。私たちが御言葉によって生き続けるとき、神さまから恵みが与えられます。それを紹介します。

  • 神さまに導かれているという感覚があります。
  • み言葉に生かされているという実感があります。
  • 自分が御言葉によって変えられていることが分かります。

 聖書に親しんでいながら、この恵みが与えられていないなら、聖書の読み方を工夫した方がよいと思います。

 

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どうやってここまで上ったのか、カタツムリ 礼拝からの帰り道

 

御用がある内は召されない

 牧師になった頃、近隣の教会の年配の牧師がよく語っていた言葉です。この先生は、難治性の疾患をお持ちの先生でした。定期的に検診をなさっていました。病気がいつ再発・悪化して死に至るかわからない、そういう不安を抱えておられました。その先生が「御用のある内は召されない」と語られました。つまり神さまが用いようとされている限り召されることはないとの言葉です。心の支えになる言葉だったのだと思います。そして天寿を全うしたと言われる年齢で召されました。

 この言葉を最近聞きました。ただし又聞きで、自分の属する教会を牧会していた牧師が語っていたということを聞きました。その先生はまだ壮年といえる年齢の方です。

 新型コロナの感染が拡大する昨今、高齢者は重症化する恐れがあると言われる中、「御用のある内は召されない」との言葉は、魅力的に響く言葉です。自分には神さまの御用がある、だから感染しない、仮に感染しても大丈夫という安心感を得られるような気がします。

 日本基督教団の機関誌『教団新報』には牧師の訃報情報が記載されています。たまに若くして召される方がいることを知ります。道半ばで召されたのは、御用がなくなったから、とは考えません。ですから「御用のある内は召されない」との言葉は真実な言葉ではないと考えます。聖書にもこのような言葉はありません。

 キリスト教の歴史でも迫害の時期、信仰を貫いたゆえに亡くなった人もいるし、亡くならなかった人もいます。何が生死を分けたのかという時、御用の有無が分けたとは思いません。

 でも今のような時期、自分はまだ神さまに用いられるだろうから、感染しても大丈夫と安心したい気持ちは分かります。自分の中にないとは言えません。「御用のある内は召されない」との言葉は、おまじないのような言葉です。この言葉にすがることは、一種の偶像礼拝になるのではないかと私自身は受けとめています。

 私としては、健全な食生活、健康な生活を送り、免疫力を高めることが大切と考えています。あとは神さまにゆだねます。

 

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カンナ 散歩道

 

おいしい珈琲

 私は珈琲が好きです。気をつけるようにしていることがあります。コーヒー豆を電動ミルでひく時間です。ある時ふと、時間を変えて粉の大きさを変えて味の違いを確かめようと思いが与えられたのです。

 ひいた粉の大きさが時間で異なります。すると珈琲の味わいに違いが出てきます。鈍感な私にも感じられます。粉が細かければ味が濃くなり、大きければ味が薄くなります。私が使う電動ミルでは、だいたい7~8秒引くのがいいみたいです。ひいたあとは、ペーパードリップ式でコーヒーを淹れます。飲んだとき、透明感があるとおいしく感じられます。それは10回に1回くらい、あるいは20回に1回くらいかもしれません。

 最近後片付けとか考えると段々面倒になり、10日ほど前にコーヒーメーカーを買い、コーヒーを淹れました。すると驚いたことに毎回透明感のあるなめらかな珈琲ができるのです。驚きました。三千円しないので、安い方のコーヒーメーカーだと思いますが、おいしく飲めてうれしいです。

 また私はスパイスを使ったカレーを作るのが好きで、一週間に1~2回作ります。使うスパイスを変えると味わいがどう変化するのかを味わおうとするのですが、この違いは、私の舌では、分からないことが多いです。鶏肉がおいしく食べられるのはうれしいです。

 日常のちょっとしたことにしあわせを感じられるのも信仰のおかげと感謝です。罪が赦され、神さまとの平和な関係の中に生きることができる幸いを深く思います。

 

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ランタナ 散歩道

 

クリスチャンの成長(23)新しい命に生きる-1

ヨハネ 5:24
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 クリスチャンは洗礼を受けた時点で神さまから新しい命をいただいた存在です。クリスチャンとは、新しい命をもつ者です。新しい命をもつ、これがクリスチャンのアイデンティティーです。この命をもつのでクリスチャンは神の子と呼ばれます。この命は永遠のいのちとも呼ばれますが、私たちの死後与えられるものではなく、クリスチャンはすでに神さまから与えられています。

ヨハネ 6:47
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

 命は、生きる力、成長しようとする力を内に持っています。持っているから命です。永遠の命を与えられたクリスチャンは、神の子として生きる力、成長する力を持っています。神さまから与えられています。しかし命というものは栄養を必要とします。栄養が与えられれば成長していきます。それが命です。

 問題は、私たちがこの命をいただいて成長することを願うかどうかです。私たちに命を与えてくださる神さまの御心を知ることも大切です。

テサロニケ一 4:3
神のみこころは、あなたがたが清くなることである。

エフェソ 1:4~5
みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

 礼拝に出席しているだけのクリスチャンなら、聖書にこのような言葉が書かれていることを知らないかもしれません。あるいは聖書を日課として読んでいても、このような聖句に目を留めて、これが本当に大切な聖句であることを悟ることはむずかしいかもしれません。

 神さまから新しい命を与えられた者として、この命に生きることを願う、これが大切です。クリスチャンとして真に成長したいのなら、今からでも遅くはありません。いつでもスタートできます。新しい命を与えられているというクリスチャンのアイデンティティーに生きることを願う、これがスタートです。

 

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命あるものは美しい 散歩道

 

神からの使命か?

 最近第一テサロニケを読んでいます。ディボーションしています。今日は4章1~8節を読み、思いめぐらしました。この箇所には深く共感するものがありました。

3節
実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。

7節
神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。

 聖なる生活をすることが神の御心であると書かれています。神が私たちを信仰者へと導いてくださったのは、私たちが聖なる生活をするためであると書かれています。目を背けてはならない聖書箇所だと思います。

 皆さん、聖なる者になりましょうと勧めた場合、考えられる応答があります。一つは「それは無理です」という応答です。私たちは罪深い者であり、聖なる者なんてとんでもないというものです。

 第二は「聖なる者になろうとすることにもう疲れています」という応答です。これは私の勝手な想像ですが、聖なる者にならなければいけないと考え、神の教えに従わなければいけないと考えすぎると律法主義に陥り、聖化を目指すことに疲れ果てるということが起きるのではないかと考えます。聖なる者を目指すことは聖書が語る道筋で考えなければならないので、それからはずれると聖なる者となることを目指すことがしんどくなるわけです。無理が生じるわけです。

 第三の応答は、聖書が示す道筋に従って聖なる者となることを目指すことです。私の属していた教派では、第一の「聖なる者になる」なんて無理ですという応答が多いと思います。

8節
ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。

 6節で聖なる者となることと反対のことをする者に対して、主は罰すると警告がなされています。8節では神は私たちが聖なる者になるために、御自分の聖霊を私たちに与えてくださっていると書かれています。聖霊の付与、これは救いの恵みに他なりません。

 「聖なる者になる」こと、それは無理と語る人たちに聖なる者になりましょうと勧めることはむずかしいです。しかし、聖書が語るように私たちが聖なる者となることは神さまの御心であり、そのために神さまは聖霊を私たちのうちに住まわせ、準備をされています。そこで思います。聖なる者を目指そうと語り続けることは私の使命ではないかと。発信の手段はいろいろあります。

 

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実りは間近か 散歩道にて

 

 

聖書が伝えること

 キリスト教というのは、ある意味ややこしいというか、面倒くさい宗教です。ある意味わかりにくい信仰です。それだけ深い信仰を伝えています。

 人間は罪を犯し、そのためにこの世界は混乱し、争いに満ちている。人間を罪から救い、この世界を救う、それが神の御心、計画だと聖書は告げます。

 まずダビデが言うように人は母の胎にある時から罪のうちにありました。

詩編51:7
わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わた
しは罪のうちにあったのです。

 つまり人はこの世に生まれてくれば、罪を犯しながら生きるのです。すべての人が例外なくそうなのです。ですからこの世界は、人の罪のゆえに、様々な問題にあふれている世界となります。そして人も様々な問題の中にあって苦しみます。中には、まあ、自分は何とか頑張って生きていると自分を誇る人がいるかもしれません。しかし人の犯す罪がこの世の様々な問題を引き起こしているのは、まぎれもない事実です。

 罪を犯していれば人生はうまくいく筈はありません。人はある点で妥協して、自分の人生は悪くはない、この社会は悪くない、と考えます。それは自己満足に過ぎません。聖書は、この世の問題は罪にあること、そして神は人を罪から救い、この世を救おうとされたと教えます。神は救い主キリストをこの世に送られたのです。

ガラテヤ 1:4
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。

 人間は教育を受ければ、正しく良く振る舞うことができるから、教育を充実させればこの世はよくなると考える人がいるかもしれません。でも教育にその力のないことは明らかです。人間の善意の努力でこの世界はよくなりません。よくなるなら、もう実現しているはずです。

 神の御子が十字架で死んで罪の贖いをなす以外に人を罪から救う道はありません。神の御心は人々を罪から救い、この世を救おうとすることにあります。人はまず罪から救われなければなりません。

テモテ一2:4~6
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

 人は罪から救われる必要があります。イエス・キリストが救いを与えてくださいます。それは罪の赦しに留まらず罪に打ち勝ち、神の御心に生きるようになることです。聖書はそれを「聖なる者になる」と呼んでいます。聖なる者を目指さなければ、この世をよくすることはできません。神はキリストを信じる人たちが、それぞれの場で、この世を救う働きをすることを願っています。

マタイ 5:9
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

 ところが罪に打ち勝つ力は人にはなく、神の助けを必要とします。神の助けは、基本的には、クリスチャンを罪に打ち勝つ人間(信仰者)に育てることにあります。そしてそのクリスチャンが神のみ心に従って生きるように導くことも必要となります。

 神は人間の心をコントロールすることはなさいません。マインドコントロールをなさいません。人間の自由を重んじます。人間が自ら救われたことを感謝し喜び、神のみ心に従うことを神は願われます。神に仕えて生きる、それが神の願う、信仰者の歩む道となります。

ローマ14:7~8
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

 そして神のご計画の完成の時が来ます。

コリント一 15:24~28
次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての・・・すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

フィリ 2:10~11
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

  聖書は私たちの思いを越えたことを伝えています。謙遜に耳を傾け、信仰を考えたいと思います。

 

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散歩道で

 

クリスチャンの歩む道

 クリスチャンの歩む道に一本の芯が通っているとしたらそれは何でしょうか。あるいは救われて生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストに似た者となることを目指すことではないでしょうか。

 神さまは、私たちと共にいてくださり、私たちの人生を導いてくださいます。それは、わたしの願い通りになるように人生を導かれるのではなく、私たちがキリストに似た者となるように神さまは私たちの人生を導かれるのではないかと思います。

 キリストに似た者になるには、神さまからの救いの恵みが必要です。救いの恵みを受け取り、聖霊の助けを受けながら、罪に勝利していく歩みとなります。それを聖化と呼ぶ人がいます。聖書は聖なる者になりなさいと語ります。コロサイの信徒への手紙で心に残った言葉があります。

3:12
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 この「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」は神さまの性質であり、イエス様の性質です。それ故、これらを身につけることは聖なる者となることであり、キリストに似た者となることです。これらの性質は人間関係の中で、つまり日々の生活の中で試され、身につけるものです。コロサイ書の続きを読みます。

3:13~14
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

 人の罪を忍耐し、悔い改めを待つのは神さまであり、人の罪を赦すのも神さまです。そしてイエス様は罪を贖(あがなう)うための供え物となられ、十字架の上で亡くなりました。それは私たちに対する愛であり、私たちの罪を赦すためでした。

 私たちが愛を身につけ、愛に生きるのは、私たちが神さまの子としてふさわしく生きることです。主であるイエス様に似た者となることです。私たちがイエス様に似た者となるために日々の生活があり、神さまの導きがあります。

 クリスチャンの歩む道には一本の芯が通っている。このことを最近強く思わされます。

 

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ヒメジョオン 散歩道