クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

御国が来ますように

 主イエスは弟子たちに「だからこう祈りなさい」(マタイ6:9)と言って、主の祈りを教えられました。この祈りの一つ一つを思いめぐらしています。

 「御国が来ますように」。人は主の祈りをどの程度の頻度で祈っているのでしょうか。多くの教会の礼拝では、主の祈りが祈られていると思います。家庭で毎日祈っている人もいると思います。私は毎日祈るようにしています。

 毎日「御国を来たらせたまえ」と祈る、考えてみるとすごいことを祈っていると思います。主イエスは御国が来ることを大いに期待しなさいと言っているかのようです。

 そこで御国が来るとき何が起きるのかと思います。主イエスが天から雲に乗っておいでになるとすれば、それは素晴らしい光景です。見物(みもの)だと思います。見てみたいです。でもその時、私は眠りについて目覚めを待っているので、その光景は見ることはできないと思います。あるいは主イエスは栄光に輝いて天使たちを従えておいでになり栄光の座につき、すべての国の民がみまえに集められるのも驚くべき壮大な光景です(マタイ25:21~22)。復活してこの光景の目撃者となる、すばらしいと思います。

 あるいは「私たちの卑しい体を、御自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださる」(フィリピ3:23)、私たちの「霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものにし、非のうちどころのないものしてくださる」(テサロニケ一5:23)のも、具体的にどうなるのか、楽しみです。

 聖書は御国が到来するときに起こることを色々描いています。年を重ね、死を越える希望に立とうとするとき、終わりの日に起きることを思い描くことは大切なのではないかと思います。なぜなら、それが起きてもいいように備えることが今の自分の歩みを導くからです。終わりの日を見て生きるのです。

 私は特に、主の栄光ある体に変えられても違和感を感じないように、主に似た者となるように、神のみ心に従って歩むことを心がけています。

ヨハネ一 3:2~3
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

 

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ダリア 馬見丘陵公園

 

私は罪からの解放された(1)

(クリスチャンの成長(61)キリストに結ばれて- 19)

 「イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、キリストに結ばれたあなたは、罪から解放されています」。

 強烈なメッセージだと思います。「罪の赦し」は福音です。罪からの解放もまた福音です。罪の赦しと並んで私たちを救う福音です。

ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。

 聖書は罪を一種の勢力、力として描きます。罪は私たちを支配し、私たちを罪の奴隷とします。しかし洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリストと共に死んだ私たちは罪から解放されました。

 人間を支配しようとする罪の力はキリストと共に死んだ人にはその力を発揮することはできません。死んだ人に何をしても、死んだ人に影響を与えることはできません。キリスト共に死んだ人に罪が働きかけても何の影響も及ぼすことはできません。キリストと結ばれた人は罪から解放されました。これは神の出来事なので、経験をもとに信じることはできません。神の言葉である聖書が告げるので、罪からの解放をイエス・キリストによる救いと受けとめます。

ローマ 6:11
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 「考えなさい」とあります。信じられなくてもいいのです。まず考えることにするのです。だから「私は罪から解放されている」と考えるのです。そう考える根拠は上に引用した聖書の言葉です。

 罪から解放されたとはどういうことでしょうか。

(1)罪から解放されるとは、罪を犯さなくなることではない

 罪からの解放とは、私たちが罪を犯さなくなる、ということではありません。もし罪からの解放が、罪を犯さない人になることであれば、新約聖書にキリスト者としての生き方がたくさん書かれていますが、それらは不要となります。罪を犯さないとは、神さまの御心に従って生きることだからです。

 キリスト者としての生き方が具体的に書かれているということは、私たちには罪を犯す可能性があることを前提としています。だから罪を犯さないように、具体的にいかに生きるべきかが教えられるわけです。

エフェソ 4:31~32
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 このような教えは、罪を犯さないで神のみ心に従って生きるべきことを具体的に教えています。

 罪から解放されるとは、罪を犯さなくなる、ということではありません。罪を犯すことはあります。罪を犯すことがあったとしても、洗礼を受けキリストに結ばれた人は、罪から解放されています。

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仁徳天皇皇后の墓

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仁徳天皇皇后の墓の右側の堀に咲く睡蓮

 

肉の性質・肉の働き

(クリスチャンの成長(60)キリストに結ばれて- 18)

コリント二12:7~9
わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 人間は体を持っています。体のない人間はいません。体には体特有の性質があります。たとえば寿命があります。食事をして栄養を補給しなければ生きていけません。自分一人で子孫を残すことはできません。体は人間に限界をもたらします。限界があることは人間の心に影響を与えます。そして人間にはさまざまな欲があります。

 神さまが人間を造られたとき、体を持つものとして人間を造られました。神さまが御自分が創造したものをご覧になって「極めて良かった」と言われました。人間にとって体を持つことは本来よいことなのです。体があるから運動を楽しむことができますし食事を楽しむこともできるし、結婚し子供を育てる喜びも与えられます。また映画や音楽を楽しむこともできます。仕事をする喜びも人と関わる喜びもあります。命に限りがあるので死別の悲しみがあり、病気にもなります。しかし体を持つことは本来よいことです。

 しかし体があるために、残念な面があることも否定できません。たとえば人間は欲を持ちます。人間が生きるために欲があることは肯定されるべきです。しかし欲が過ぎると問題を生じることがあります。十戒にはそのような過剰な欲に対する戒めがあります。「むさぼるな、姦淫するな、盗むな」。ダビデは大きな罪を犯しました。

 また限界のある人間は、自分のプライドを何としても維持しようとする心があります。プライドが傷つけられれば怒りが湧いてきて、思わぬ事態を生むことがあります。また自分が可愛いので、自己中心的になり、利己的になりがちです。他者との関わりの中で傷ついたり、傷つけたり、罪を犯してしまいます。

 聖書には、罪が私たちの肉の性質を利用して罪を犯させるとの記述もあります。私たちは自分の体を、自分の心を管理する責任を持っています。

コリント一 4:2
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 

  私自身は、タバコの奴隷となり、神さまから与えられた体を傷つけていたことを思い出します。これが後に受洗するきっかけとなりました。

 キリスト者になる以前の人間は、肉の性質、肉の働きを完全にコントロールして、罪を犯さないで生きることはできません。肉に従って生きることが普通になっています。

 キリスト者になっても肉の性質はなくなりませんし、肉の欲が私たちを動かし、罪を犯させようとすることはあります。しかしキリスト者は聖霊の助けを得て、これに打ち勝つことができるようになりました。救いの恵みは罪の赦しだけではありません。罪に打ち勝つことができるようにされたことも大きな救いの恵みです。この恵みを知り、神さまをたたえる者になりたいと思います。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

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ヒレタゴボウ 可愛い花です

 

罪に支配された体の滅び

(クリスチャンの成長(59)キリストに結ばれて- 17)

 キリストに結ばれ新しい人になっても、肉の性質が私たちにはあります。この肉の性質のために私たちは罪を犯します。しかしこの肉の性質も処置されるのです。

ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。

 ここで「罪に支配されたからだが滅ぼされ」とあります。この「滅ぼす」という言葉はヘブライ人への手紙でも使われています。

ヘブル 2:14~15
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 ここではイエス様は悪魔を滅ぼしたとあります。完全に滅ぼしたのなら、悪魔の働きはこの世からなくなります。「滅ぼす」と訳されていますが、これは「無力化する」という意味です。イエス様は悪魔を無力化されたのです。ロマ書では罪のからだ、言い換えると肉の性質を無力化したとなります。

 肉の性質は無力化されていくのです。私たちがキリストに結ばれ、新しい人として生きていくとき、言い換えるとそこには戦いがあります。御心に生きるのを妨げる肉の性質があります。しかし私たちは御子の支配下にあり、恵みの支配下にあり、肉の性質に打ち勝つことができるのです。勝利すればするほど、肉の働きは弱くなっていきます。

ガラテヤ 5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 罪との戦いには、聖霊の導き、助けが必須です。神のみ心に従おうとするとき、それに反抗する思いが起きてきます。心の中では葛藤が起きます。戦いが生じます。その時、第一歩を踏み出すのです。自分の決断です。すると聖霊の助けが来ます。聖霊の助けが来てから一歩を踏み出すのではないのです。本気で神さまに従おうとすることを示したら助けが来ます。これは、私が経験から学んだことです。

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柳生街道で

 

奈良を歩いて

 長い自粛生活が続きました。今夏は経験したことがないような暑い夏でした。今ようやく涼しくなり、ウォーキングを楽しんでいます。先週はいくつかの天皇陵、そして今日は唐招提寺と薬師寺に行きました。近畿鉄道(近鉄)はテクテクマップなるものをつくり、ウォーキングのコースをいろいろ紹介しています。それを使っての「歩き」です。

 奈良には天皇の墓がいくつも保存されています。天皇の名前を聞いても、どんな人で何をした人なのか分かりませんが、墓だけは保存されています。生きた証しとして保存されています。そこでふと思います。私は生きた証を残すことなどできませんが、天に名が書き記されることを喜びたいと思いました。

ルカ 10:20
しかし、悪霊があなたがたに服従するからといっ、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

 お寺の境内を歩くのは好きです。どのお寺も萩がきれいに咲いています。お寺ですから仏像があります。長い時間を経ていることは見れば分かります。お寺の沿革を見ると、ある時期荒れ果てたと書かれていることがよくあります。しかし、信仰がお寺を復興させたことが分かります。お寺を建立し、それを守ってきた人たちの信仰を思います。当時はキリスト教は伝来していませんから、日本にはキリストを知る人はいません。信仰は仏教に向けられました。篤い信仰を持つ人たちがいたことを思います。

 私は今の時代に産まれ、キリストを信じる信仰に生きることができたことを神の恵みと受けとめました。聖書を読み、真理を知ることができますし、神さまとの交わりに生き、礼拝をささげることができます。これは決して当たり前のことではなく、ありがたいことだと思わされます。

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天皇陵

 

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秋篠寺

 

 

私と私の心の区別

(クリスチャンの成長(58)キリストに結ばれて- 16)

 人格としての「私」を考えます。この「私」は心を持っています。「私」の心ですが、「私」ではありません。「私」は自分の心を見ることができます。「私」は今、こんなことを考えている、こんなことを感じている、と言うように、「私」は、自分の心を観察することもできます。「私」の心なので、心は「私」と関係深いことは確かですが、「私」の心は「私」ではありません。

 なぜこんなことを言うかというと、混乱しないためです。キリストに結ばれた「私」は新しい人であり、もはや古い人ではありません。古い人はキリストと共に死にました。

 「私」は新しい人であり、神さまが与えてくださる新しい命に生きる者ですが、肉の性質があるために「私」の心には、悪しき思いが湧いてきます。だからといって、古い人が生き返ったわけではありません。

 さらにもう一歩進んで言えば、新しい人である「私」は、罪から解放されています。なぜなら「私」は、罪を犯したいとは思わないからです。キリストに結ばれた人が姦淫をしたい、物を盗みたい、憎らしい人を殺したいなどと願うでしょうか。「私」は願いません。しかし、そう願う思いが心の中に湧いてくることはあります。

 このような思いが湧いてくると私たちは、やはり自分はまだ古い人なんだとか、自分は罪深い人間なんだとか、考えてしまいがちです。肉の性質がある限り、好ましくない思いは、湧いてくるのです。問題は、これにどう対処するかです。悪しき思いに負ければ、罪を犯すことになります。これに勝てば、私たちは聖なる者とされていきます。

 「私」は誰か、と言われたら、「私」は新しい人です。もはや古い人ではありません。「罪から解放されている」と語ることさえできます。

 新しい人は、「御子の支配下」「恵みの下」に生きているので、肉の働きに勝つことができます。これは聖霊の導きによって歩むこと、聖霊の助けを得て歩むことを意味しています。

ガラテヤ 5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 

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ゲンノショウコ(現証拠)面白い名前です

 

古い人の幽霊登場?

(クリスチャンの成長(57)キリストに結ばれて- 15)

 10月1日のブログに「罪に勝利して生きることを考えるとき、罪から解放された者として生きることを考えるとき、考えるべき大切なことが二つあります」と書きました。第一は「古い人と新しい人の理解」第二は「肉の性質」です。

 キリストに結ばれたキリスト者は新しい人であるとお話ししました。キリスト者はもはや古い人ではないのです。古い人はキリストと共に死んだのです。妻にこの点どう思う?と聞いたら、古い人が時々姿を現すとのことでした。古い人の幽霊が登場したのでしょうか。なぜ、古い人が出てくると思うのでしょうか。それは私たちの内にある「肉の性質」のためです。

コリント一 3:1
兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。

 パウロは、キリストとの関係では乳飲み子である人のことを「肉の人」と呼びました。乳飲み子とは、まだ成長していないとの意味です。

ローマ 7:14
わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。

 「肉の人」とは肉の性質が強い人、との意味です。肉の性質とは罪に傾く性質のことです。律法つまり神の御心に私が従おうとしても、肉の性質のために、御心に反抗する思いが心の中に湧いてくるのです。古い人はこの肉の性質に従って生きているので、罪に売り渡されている、つまり罪の支配下にあり、罪の奴隷であると言われます。キリストを信じない人はすべて古い人であり、肉の人です。
 私たちキリスト者が新しい人として生きようとすると、私たちのうちにある肉の性質が邪魔をします。すると信仰者の心の中で、主導権争いが生じます。

ガラテヤ 5:16~17
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 キリストを信じる私たちは新しい人であり、神の御心に従って生きようとします。御心に従う思い、それは聖霊が与えてくれるものです。しかし私たちの肉の性質は、霊とは逆のことを私にさせようとします。そこで心の葛藤が生じます。

ガラテヤ 5:19~21
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 この「肉の性質」は、私たちが生きている限り、消えることはありません。自己中心的な心は、まさに肉の性質の典型的なものです。ですから信仰者には、肉との戦い、罪との戦いが常にあります。この肉の性質が私たちを罪へと導くので、私たちは新しい人にされているのに、古い人が時々出てくると感じるわけです。
 しかし古い人は死んだのです。肉の働きと古い人を混同しないことが大切です。肉の働きは古い人にもあり、新しい人にもあります。古い人の幽霊は存在しません。

 問題は、肉の性質にどう対処するかです。