クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

肉の人と霊の人

  罪に勝利する歩みを考えてきましたが、ちょっと視点を変えた方がよいかと思いました。クリスチャンの成長の段階との関連で罪に勝利する歩みを考えたいと思いました。

 まず、聖書自身がクリスチャンの状態について語っているのでそれに耳を傾けたいと思います。

コリント一
3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。

 この箇所ではキリスト者は「肉の人」と「霊の人」と二種類に分けられています。肉の人はキリスト者との関係では乳飲み子されています。

3:2~3
わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。

 肉のキリスト者は乳飲み子であり固い食物を食べることはできないこと、そしてコリント教会の人たちが相変わらず肉の人であると書かれています。パウロからすれば、コリント教会の人たちが成長し、固い食物を食べることができるようになって欲しかったのです。残念ながらそうはなっていませんでした。そしてパウロがコリント教会の人たちが肉の人であると判断した理由も書かれています。

3:3
お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。

「ただの人」とは、この世の人といってよいと思います。コリント教会のキリスト者は、キリストを信じキリスト者になったかも知れませ。しかしその振る舞いは、この世の人と少しも変わらないというのです。キリスト者らしさがないのです。

 似たことをヘブライ人への手紙が語っています。

5:12~14
実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

 この手紙を受け取った教会のキリスト者たちは、もう教師となっているはずなのにとあります。つまり成長していることが期待されています。しかし、そうでないというのです。乳を必要とする始末で、固い食物を食べることができないとあります。乳ということではペトロの手紙一にも言及があります。

ペトロ一 2:1~2
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 ここでは「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口」を捨て去るとあります。これらは肉の人の特徴です。ですからこれを捨てることがキリスト者としての成長につながります。そして霊の乳を慕い求めて成長しなさいと進められています。

 罪に打ち勝つ人は、霊の人と言えます。そして霊の人は乳ではなく、固い食物を食べるとあります。聖書はキリスト者を肉の人と霊の人に分けています。言うまでもなく、肉の人から霊の人になることは、信仰の成長を意味します。

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ナンテンの実。きれいです。散歩道。

 

 

 

 

愛は忍耐強い

 今、コリントの信徒への手紙一を読んでデボーションをしています。13章に至りました。「愛は忍耐強い」、これは13章の「愛の賛歌」と呼ばれる箇所に書かれている言葉です。パウロは愛とは何かを語る時、一番最初に「愛は忍耐強い」と語ります。「愛するってどうすることですか」と質問されたら私たちはどう答えるでしょうか。「忍耐強いこと」と答える人は少ないと思います。しかしパウロはこれを最初に掲げたのです。なぜなのかと思います。

 愛するとは何か。私たちはこれをどこから知るのでしょうか。辞書を調べれば説明が書かれています。また私たちの経験から説明できるかもしれません。しかしパウロが「愛は忍耐強い」と語る時、それは神さまを見て語ったのではないかと思います。

 「神は愛なり」と言います。私たちは愛を神さまから知るのだと思います。愛するとは何か、神さまから知るのです。パウロはそのようにして愛は忍耐強いと知ったのではないかと推測します。パウロは聖書(旧約聖書)から学んだと思います。

 神さまはモーセに対してご自身を啓示されました。

出エジプト記34:6
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」。

 ここには明らかに、神さまは忍耐強いとあります。神さまは何に対して忍耐強いのでしょうか。それはもちろん人間に対してです。神さまの忍耐で私が思い出すのは、荒野を旅するイスラエルに対するものです。モーセは偵察隊を派遣して約束の地を探らせました。そこは良い土地ですが、強い民もいました。そこで民は泣き、文句を言いました。荒野の旅の中で、何回も困難な時があると必ず神が助けたことを忘れ、神さまに信頼しなかったのです。神さまの堪忍袋の緒はついに切れました。民の不信仰にお怒りになり、「わたしは疫病で彼らを撃ち、彼らを捨てる」と言いました。その時モーセは執り成しをします。モーセは神に向かって

「あなたは忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方」(民数記14章)

と語ります。

 

 もう一つ思い出すものもイスラエルの民の不信仰です。ネヘミヤ記でネヘミヤは神さまの忍耐を語っています。背信を続けるイスラエルの民に対して、神さまは預言者を送り続け、民が神に立ち帰るのを忍耐強く待ち続けました。しかし立ち帰らなかったのでイスラエルは外国の手に落ちました。

ネヘミヤ 9:30
長い年月、あなたは忍耐し/あなたの霊を送り/預言者によって勧められたが/彼らは耳を貸さなかったので/諸国の民の手に彼らを渡された。

 次は新約聖書です。

ペトロの手紙二 3:9
ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

 これは終末の到来が遅いと考えている人たちに対する言葉です。終末がまだ来ないのは、神さまが人々が悔い改めるのを忍耐をもって待っているからだと語ります。

 以上のような聖書を読むと、神さまの愛の第一を「忍耐」と考えることができます。だからパウロは「愛は忍耐強い」と書いたのではないかと推測します。私たちは神さまの忍耐強さの中で支えられているとあらためて知らされます。

 

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白梅 散歩道

 

高官のための祈り

 聖書は高官のために祈りなさいと教えています。

テモテ一 2:1~2
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。

 高官とありますから、首相、大臣、官僚の任にある人たちのために祈ることになりますが、最近、何をどう祈ったらよいのか、分からなくなりました。私が願い祈っていることは、なかなか実現しそうにないからです。自分では、キリスト者として祈っているつもりですが、結果として現実とはかけ離れたことを祈っていることになります。忍耐強く祈っていくことが大切なのでしょうか。ちなみに今、次のことを祈っています。

  • 政治家が権力という魔物に捕らわれ、良心を失うことがないように。
  • 権力はゆだねられたものであり、自分が何でも好きなように行うために与えられたものではないと知ることができるように。

 ネットを見ていたら、次のような祈りに出会いました。

  • 国政においても、正しいことが正しいと明らかになり、間違ったことが間違っていると明らかになり、正義を行わなければならないことが、人々の前に明らかに示されますように。
  • 神様、日本の政治家に知恵と決断力を与え、この国を導いてください。 イエス様のお名前によってお祈りします。

 このブログを書きながら考え、またネットを検索し、今たどり着いたのは、「かなえられる、かなえられないは関係なく、自分が祈るべきと思ったことを祈っていく」。

 

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早くも梅が 散歩道

 

律法を利用する「罪」

 私たち人間の生まれながらの性質を聖書は「肉」と呼んでいます。ガラテヤ書には、この性質から生まれてくる行動が紹介されています。

ガラテヤ 5:19~20
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 私自身を顧みつつ現代人の持つ肉としては「自己中心、他者への無関心、ごまかし、保身、高慢、誇り(プライド)、嘘、悪口、非難、自己顕示欲、無責任、差別、権力欲、名誉欲、ぜいたく、さまざまな貪欲など」があると思います。

 信仰を持たない人たちは、自分がこのような肉の性質に従って生きていても何とも思いません。なぜならそれが「人間」だと思うからです。そして他の人たちも自分と同じように生きているからです。もちろん、これらの肉の性質を抑制して品位を保つように努力している人たちもいます。でもどのような人にも自分の弱点となる肉の性質があります。それが分かるのはキリスト者になってからです。

 キリスト者になると私たちは聖書から神の教え、神の戒めを知るようになります。聖書はこれを「律法」と呼びます。そして罪とは律法を破ることと知ります。そこで問題となるのは、律法を知った私たちに罪を犯すよう働きかける力があることです。

ローマ 7:7~8
律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。 

  「律法によらなければ、私は罪を知らなかったとは」、神の教えを知らない人は自分の罪に気づくことはないとの意味です。神の教えを知らないのですから、神の教えを破ったという罪の自覚は生まれません。自分の罪を知ることはありません。神に似せて造られた人間には良心があり、人は自分の行いに対して良心の呵責を覚えることはあります。

 生まれながらの人は、むさぼりに生きていたとしてもむさぼりという罪を犯しているとは考えません。たとえば泥酔をして道端で寝てしまってもむさぼりの罪を犯しているとは考えません。「飲み過ぎちゃって醜態をさらしたよ」と言うかも知れませんが、むさぼりの罪を犯したとは考えないでしょう。

 私たちが神の教えを知ると、それに従いたくないとの思いが湧いてくる時があります。それは罪の働きだと聖書は教えます。ここでの罪は、私たちに罪を犯させようとする「力・勢力」を意味しています。悪魔と言い換えても構いませんが、パウロは、私たちに罪を犯させようとする「力」としての「罪」を考えています。

 アダムとエバが神に禁じられた実を食べた物語は、蛇との会話によって「食べてみたい」との思いがエバの心に生じたことを語っています。蛇は食べても死なない、食べたら神のように賢くなると語り、エバの心に食べたいとの思いを募らせたのです。

 「罪は掟によって機会を得」とありますが、私たちは神の教えを知るとそれに従いたくないとの思いが時に、湧いてきます。私たちの肉に「罪」が働きかけたのです。「罪」が機会を得たのです。「罪」はあらゆるむさぼりをわたしの内に起こしました、とあります。私たち人間にはさまざまな欲があり、それを満たしたいという思いがあります。これは肉の性質です。「罪」は、この肉の性質を利用して、むさぼりを起こさせるのです。

 「姦淫、わいせつ、好色、泥酔、酒宴」は快楽をむさぼる罪です。「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」などは自分は人より上に立ちたいとの欲から生まれるもので自分の正当性をむさぼるものと言えます。

 神の教えに従いたくないとの思いが心に湧いた時、そこには何らかのむさぼりがあります。「罪」がそこをつけ狙い、私たちに罪を犯させます。

 そこで思います。私たちは自分が罪深いから罪を犯すのではなく、このような「罪」の働きかけに従ってしまう時、私たちは罪を犯すのです。理屈としては、キリスト者は神の教え、戒めを知っていますから、「罪」の働きかけに対して抵抗することができるはずです。しかしこの「罪」の働きかけに負けてしまうのが私たちの現実だったのです。この現実はキリストによって打ち破られました。

 

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ヤツデ 散歩道

 

罪へ誘う勢力を認めて戦う

 聖書によれば、私たちに罪を犯すように働きかける勢力、力があります。聖書は具体的に悪魔、サタンが私たちに罪を犯すように働きかけると告げます。悪魔とサタンは同一の存在といってよいと思います。しかし現代人は、このような存在を認めません。何をするにしろ、すべて自己責任、自分に責任があるというのが、現代人の考えです。

 悪魔の働きかけによって罪を犯す時、自分の責任を回避することはできません。悪魔のせいだと悪魔に責任転嫁はできません。なぜなら信仰者は悪魔の働きかけに抵抗することができるからです。

 もし私たちが悪魔の存在を認めないとどうなるでしょうか。私たちが罪を犯さないで生きるためには、自分の力で努力することが必要になります。罪を犯したとすれば、それは努力不足となります。自分の力で努力して、罪を犯さないことが果たしてできるのでしょうか。できません!それは罪に勝利しようと努力したクリスチャンなら誰でも知っていることです。

 罪へと導く勢力があります。これを認めるか否か。大きな違いがあります。もし認めるなら、罪を犯さないためには、戦いが生じます。罪へと導く働きかけに対して、「否」を言う戦いが生じます。

 もし認めなければ、自分の力で罪を犯さないように努力する必要が生じます。もし努力してもなかなか罪を克服できないとなると、自分を責めることになります。そして自分は罪深いと考えます。自分は罪深いから罪を犯してしまう。そう考えると罪の泥沼に入ってしまい、そこから抜け出ることができなくなります。でも私たちはイエス・キリストの十字架の犠牲のおかげで罪が赦される、あゝ神さま、感謝します、となります。しかし罪を犯す、赦しを感謝する、また罪を犯す、赦しを感謝するという繰り返しから抜け出ることはできません。私はこのような状況の中にいる人をたくさん見てきました。

 私たちは目を覚ます必要があります。神が救い主として御子をこの世に遣わし、十字架の死に渡し、復活させたのは、罪の赦しを与えるためであったのか。全能の神が私たちに与える救いとは、罪の赦しと永遠の命なのか。罪から解放されるという救いは、全能の神でも与えることはできないのか、と。

 もし認めるなら、罪に勝利する道が開かれます。これまで犯していた罪を犯さなくなるためには、戦いが必要となります。そして戦えば勝利できるのです。私たちは自分の力だけで戦うのではなく、神の助けを得て戦い勝利します。

ヘブライ 12:1
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

ヘブライ 12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

 これからは罪へと誘う力に抵抗するのです。

ヤコブ4:7
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。

 罪に対する勝利は約束されているのです。

ペトロ一 5:8~9
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです

 悪魔には抵抗するのです。私たちの主イエスも荒野で、み言葉を持って悪魔に抵抗しました。多くの兄弟が、悪魔に抵抗してきたのです。

エフェソ 6:10~12
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

 このように聖書は罪を犯すように働きかける悪魔に対して抵抗することを教えています。

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馬酔木(あせび)。春の到来を待つだけ。散歩道

 

罪へ誘う勢力を認める

「敵を知り、己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」。

 これは聖書の言葉ではありません。中国の古代の兵法書にある言葉として知られています。罪との戦いに勝利するためにも当てはまる言葉です。罪との戦いを考える時の敵とは、頑なな自分ではなく、心の弱い自分でもなく、聖書によれば悪しき勢力です。それは人間ではなく、目に見えない霊的な力を持つ勢力です。

 創世記3章に蛇が登場します。蛇はエバに話しかけ、その結果としてエバそしてアダムは、神の命令に逆らってしまいます。蛇との会話がきっかけで彼らは罪を犯したのです。蛇が登場する前は、彼らは園の中央にある善悪の知識の木の実は食べなかったのです。しかし蛇が登場しエバに語りかけ、エバは蛇と会話し、その結果として神の戒めに背いてしまいました。この物語は人間に罪を犯させようとする力が存在することを教える物語となっています。

 イエス様はその活動を始められる前に荒野に行かれました。それは霊の導きとあります。イエス様は聖霊の導きにより荒野に行き、そこで悪魔から誘惑を受けられました。人間に罪を犯させようとする勢力を聖書は悪魔と呼んでいます。神の働きをする者には誘惑はつきものです。妨げようとする力が常にあるのです。
 

マタイ 4:3~4
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」。 

  イエス様が弟子たちに御自分の苦難と死を告げたことがありました。

マタイ 16:22~23
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。 

  イエス様が十字架に向かう道を歩むことを語られた時、ペトロが「そんなことがあってはなりません」と言いました。ペトロの気持ちは分かります。イエス様が殺されてしまうなんてあってはならないことです。するとイエス様は「サタン、引き下がれ」と言われました。聖書は悪しき勢力を悪魔とか、サタンとか呼びます。イエス様を裏切ったユダについても聖書は語ります。

ヨハネ 13:2
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 

  聖書はこのように人間に働きかけ、罪を犯させようとする力の存在を語ります。その存在は目に見えませんし、現代人から見れば、悪魔の存在を信じるなんて理性ある人のすることではないように思えます。

ペトロ一 5:8
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

ヤコブ 4:7
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。 

  このような聖書の言葉を目にする時、悪魔の存在を考えざるを得ません。悪魔は見えないし、その働きも見えません。神も見えないし、神の働きも目には見えません。神は信じるのに悪魔は信じないというのは真理に対して心を閉ざしているような気がします。

 罪との戦いにおいて真の敵は、悪魔・サタンです。敵をはっきりさせることは罪との戦いにおいて大切なことです。敵は自分の頑なさでもなく、自分の弱さでもなく、自分の罪深さでもありません。

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ランタナ 咲く季節は過ぎているのに、散歩道

 

福音の響き

 先日テレビで『うつ病九段』というドラマを見ました。実在の将棋の棋士の物語です。私は日曜日NHKの将棋と囲碁の対局の番組を見ているので、この棋士は知っています。もちろん録画したのを見ます。彼はうつ病になり、その時の体験を本にまとめました。それが今回ドラマ化されたのです。

 うつ病で入院した彼には、世界はモノクロに見えていたようです。ある時、病院の窓から花火を見ていた時、花火がモノクロからカラーに変わり世界に色があると気づきます。その時から回復に向かっていきます。

  彼の妻が、夫が「美しい手」を指すのを見たいと語る場面があります。彼女は夫が美しい手について自分に説明する場面を回想します。棋士が言う「手」ですから、人間の手ではなく、将棋でさす手を意味します。いい手を指せば勝ちますし、まずい手を指せば負けます。勝負の世界は厳しいもので、ぬるい手を指せば負けます。最善を尽くして尽くしてそれで勝負になります。互いに最善を尽くすわけですから、何が勝敗を分けるのかは分かりません。もちろん実力が勝負を決めますが、実力伯仲の世界の中で生き抜くのですから大変です。

 その美しい手とは何でしょうか。自分が負けそうな局面、必敗の場面で、一筋の光が突然見えてきます。「盤上この一手」というさし手です。これ以外では負けますが起死回生の一手に気づくのです。10手先、あるいは20手先に自分が勝利する、そういうさし手が見つかるのです。それを「美しい手」とこの棋士は語ります。トップ棋士でもそのような美しい手をさせるのは一年に一回あるかないかだ、と誇らしげに妻に説明していました。

 そして思うのです。私は棋士ではなく牧師でした。今は説教の務めから退いています。棋士にとっての美しい手は牧師にとっては何か、と思いました。それは「福音が響く」説教ではないかと思いました。

 将棋とちがって説教の場合、福音が響くのを聞くのは聞き手です。説教者は語るだけです。自分の説教に福音の響きがあるのかどうか、どうしたらわかるのでしょうか。説教者は福音の響きそのものを聞くことはできません。でも分かる時があるのです。説教後の讃美歌です。福音が響くのを聞いた会衆が大きな声で賛美するのです。福音の響きを聞いて、感謝し喜んで賛美しているんだなと分かります。自分も大きな声で賛美して喜びを共有します。うれしい体験です。

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センダンの木の実 散歩道