クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

関係性に生きるクリスチャン

 人はひとりで生きることはできません。他者との関わりの中で生きています。キリスト教は他者との関わりを大切にするように教えます。

 信仰に生きるとは、神との関係に生きることです。結婚とは伴侶との関係に生きることです。名前はありませんが、親と子は親子の関係の中に生きます。

 この関係を考えるとき、それぞれの立場というものがあります。親という立場と子という立場。神という立場と信仰者という立場。夫という立場と妻という立場。自分がどの立場にあるかによって相手とのふさわしい関わり方が生じます。立場の違う者同士が関わって生きていくわけです。立場をわきまえることは大切です。聖書には夫に対する教え、妻に対する教え、親に対する教え、子に対する教えが書かれています。信仰者に対する教えももちろんあります。

 どの立場にいても、人は人格を持つ存在であり、人格を持つという点で皆平等です。人格を持つという点で、誰もが尊ばれるべき存在です。このことは大切なことだと思います。

 夫婦は立場として対等です。親子は対等とは言えません。親は子を守り、育てます。子は親に従います。立場によって相手とどう関わるのか、違ってきます。信仰者は神に従い、神は信仰者を守り導きます。立場が違えば、対等でない場合がありますが、そこには上下関係はありません。人格を持つという点ではみな対等です。親が子どもより上の存在であるとするなら、親は子どもより価値ある存在となりますが、それは違います。人格を持つという点で誰もが敬われるべき価値を持っており、対等です。神と人間の関係においても対等です。

 どの立場においても共通して求められることは、相手を人格を持つ存在として尊重することです。それゆえ敬意をもって相手と関わります。それを愛と言います。母親と赤ちゃんとの関係においても、赤ちゃんを人格を持った存在として関わることが大切です。自分では何もできない赤ちゃんにも人格を持った存在として尊重して関わります。認知症の親や伴侶と関わるときも、相手を人格を持った存在として敬意をもって関わる、つまり愛することが大切です。相手が自分のことを人格を持つものとして尊重しているかどうか、人は感じます。認知症の人も赤ちゃんも感じていると思います。

 関係性に生きることを大切にするのがクリスチャンであると信じます。この関係性をおろそかにすることは罪です。神さまは私たちを愛する人間に変えてくださると私は信じています。

f:id:holala:20211126220131j:plain

ススキ 散歩道

 

プライドという罪

 創世記3章でアダムとエバは神からとって食べてはならないと命じられた木の実を食べてしまいました。彼らは自分たちが裸であることを知りました。そして神が近づいてくるのを知ると彼らは身を隠しました。神の戒めを破ったので、神の前に出ることができません。彼らは神に逆らうという罪、神の御心を軽んじる罪を犯しました。自分を神の上に置くという罪を犯しました。

 「どこにいるのか」と神は声をかけます。「恐ろしくなり、隠れています」と答えます。そして神は木の実を食べたのか、と問いかけます。するとアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べてしまいました」と答えます。

 アダムは自分の非を認めません。女が木の実を自分にくれたから食べたと責任を女のせいにします。そればかりか、その女は、あなたがわたしと共にいるようにされた女」と言い、暗に神にも責任があるかのような言い訳をしています。女は「蛇がだましてので食べてしまいました」と蛇に責任を転嫁しています。

 アダムも女も、自分が取って食べた罪を認めようとしません。自分は正しい、という思いが人間にはあり、自分は正しいとするプライドが人間にはあります。このプライドのゆえに、人は自分の過ちを素直に認めず人のせいにします。このプライドが争いを生み出し、戦いを生み出します。

 夫婦喧嘩、親子の喧嘩、いずれも自分が正しい、悪いのは相手だと主張します。ここに人間の罪、プライドが現れています。そしてこんな喧嘩、誰でもしていると言って、自分の罪を認める人はほとんどいません。しかし根本的な罪が明らかに現れています。人間のプライド、国家のプライド。権力者は決して自分の非を認めません。プライドこそ本質的な罪です。

 この罪からの救いのためにイエス・キリストがお生まれになりました。十字架の死を遂げられました。もうじきクリスマスですね。

f:id:holala:20211125201428j:plain

山茶花 散歩道



 

善悪の知識の木

 創世記によれば、神は人間を造り、エデンの園に住まわせました。そして園のすべての木から取って食べてよいと言われました。彼らは食べるための労働をする必要はありませんでした。神は彼らに一つだけ警告をしました。善悪の知識の木の実は食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと警告されました。

 神は、なぜ善悪の知識の木の実を食べてはいけないと命じられたのでしょうか。善悪を知ることは人間には大切なことなので積極的に食べてもいいのではないかとの考えもあります。

 聖書によると蛇が現れ女に言います.「善悪の知識の実を食べると目が開け、神のように善悪を知る者になることを神はご存じなのだ」と言います。あたかも人間がこの木の実を食べ、神のように賢くなることを神は嫌っているのだと言っているかのようです。神の意地悪さを暗示し、食べるように誘惑しているのです。その結果、女は実を取って食べました。そして男にも渡し、男も食べました。

 人間にとって善と悪を知ることは大切です。ではなぜ食べてはいけないのでしょうか。人間が善と悪を知るようになり、自分は善と悪を知っていると考えるようになると人間は自分は正しい者であると考えます。自分は正しい、と考え自分を誇り、プライドを持つのです。

 人間は他者との関わりの中に生きていきますから、人と人が、自分は正しいと考えるようになると争いが生じます。親子、夫婦、国と国の間で争いが起きるのは、互いに自分が正しいと主張するからです。この争い、戦いには自分のプライドがかかっています。現在の世界に争い、戦いがなくならないのは、このプライドが原因です。このプライドこそ人間の罪の根本です。このプライドのゆえに、さまざまな具体的な罪とされる行いが生まれます。

 人は神の前に畏れを持つとき、互いに共に神に従い、心をひとつにして平和をつくることができます。神への畏れがないとき、プライドのゆえに自己を主張し、争いが生まれます。善悪の知識の木の実を食べた時点で、神への畏れはなくなりました。そして人間が生きるこの世界は、争い、戦いが絶えることのないものとなりました。平和を生み出す努力はなされますが、うまく行きません。

 神はこの世界が争い、対立で満ちた世界になることをあらかじめご存じであり、救い主をこの世界に送ることを世界を造られたときにすでに計画されました。

エフェソの信徒への手紙  1:4 
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

マタイ 5:9
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

f:id:holala:20211124190555j:plain

ヤブムラサキ



 

信じるとは考えること

 今日はマルコ福音書4章35節以下を読みました。イエス様が「向こう岸に渡ろう」と言われ、弟子たちは舟に乗り漕ぎ出しました。やがて突風が吹き出し、舟は波をかぶり水浸しになりました。イエス様は舟の艫(とも)の方で寝ています。舟が沈むかも知れないと恐れた弟子たちはイエス様を起こし、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。そこでイエス様は風を叱り、湖に静まれと命じました。すると凪になりました。そして弟子たちに「まだ信じないのか」と言われました。

 弟子たちはそれまでイエス様のなさった奇跡をいくつも見てきました。ですから、この場面でも慌てふためくことなく、イエス様に信頼する行動を取るべきだったのです。しかし弟子たちは「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」とイエス様を責めるような口調で語りました。これはイエス様を信頼する気持ちから出た言葉ではありません。

 私が説教の中で語ったことのあるたとえがあります。山道を歩いていたら急に谷となり、前に進めなくなりました。そこに看板があり、ここから向こうに目に見えない橋がかけられています。信じて渡れば、その向こうにまた道が続いています、と書かれていました。信じて渡るか、渡るのをやめるのか。

 私たちの生活の場面でも神さまの助けを必要とする場面は色々あると思います。信仰とは信頼することであると教えられます。信仰とは信頼に基づく行動をすることです。看板を信じて渡るか否か。

 看板の言葉を100%信じることができるなら、信じて渡ればいいです。看板の語ることを信頼しても大丈夫か、との疑いがあるときは渡る気持ちにはなりません。しかし信じたいけど大丈夫かな、という思いがあるときはどうしたらいいでしょうか。

 その時は、自分が信仰者として生きていきたいのか否か、確認すればよいと思います。信仰者として生きていきたいなら、信頼する行動を選べばよいと思います。大切なのは、信頼した行動を取るか取らないかであって、100%信頼しているか、10%しか信頼していないかではないと私は考えます。信頼した行動を取るか取らないか、です。

 目に見えない橋を渡ったら、痛快です。信じるっていいもんだなあ!

 目に見えない橋があると信じることはできなくても、目に見えない橋があると考えることはできます。「信じる」を「考える」で置き換えるのです。信仰とは、橋があると考えて行動すること、と私は考えます。100%信じ切ることができることはあまりないと思います。自分が信じることのできることしか信じないのであれば、それは自己流の信仰で、聖書が伝える信仰とは異なるものになってしまいます。

 私自身は、聖書が語る終末の事柄を100%信じることはできませんでした。だから聖書が語る終末はあると考えることにしました。そして終末があると考えて行動するようにしてきました。終末の裁きが本当であっても困らないように行動してきました。死を越える希望も聖書の言葉によって確かにされていきました。そして今はそんなに疑ってもいません。むしろ本当であって欲しいと願うようになってきました。

「まだ信じないのか」。これは信頼する行動を取りなさいとの意味と受けとめます。

 

f:id:holala:20211123210332j:plain

今年最後の野菊かな

簡単な道ではない

最近インターネットのユーチューブですてきな賛美歌に出会いました。
それは "It’s not an easy road" (簡単な道ではない)です。
歌詞は以下の通りです。楽しく歌えて元気になります。
下のリンクをクリックするとyoutubeのサイトに行き、聞くことができます。

ここをクリック

1.
It’s not an easy road we are travelling to heaven,
For many are the thorns on the way.
It’s not an easy road, but the Savior is with us,
His presence gives us joy every day.

天に向かって私たちが旅している道は簡単な道ではない
道にはたくさんのとげがある
容易な道ではないけど、救い主が私たちと共にいる
彼の臨在が、私たちに毎日喜びを与える

Chorus:
//No, no, it’s not an easy road.//
But Jesus walks beside me and brightens the journey,
And lightens every heavy load.

コーラス

ノー、ノー、簡単な道ではない
しかしイエスが私の隣にいて歩いてくれ
旅を輝かせ、
すべての重荷を軽くしてくれる

2.
It’s not an easy road; there are trials and troubles,
And many are the dangers we meet.
But Jesus guards and keeps, so that nothing can harm us.
And smoothes the rugged path for our feet.

容易な道ではない、いくつもの試練や困難がある
たくさんの危険にも出会う
しかしイエスは守り支えてくれるので
 私たちを傷つけるものはない
イエスは私たちの足のために
 デコボコ道を平らにしてくれる

コーラス

3.
Though we are often footsore and weary from travel;
Though we are often bowed down with care.
A better day is coming when home in the glory,
We’ll meet in perfect peace over there.

私たちはしばしば足を痛め、旅で疲れるけれども
心配のためにしばしば打ちひしがれるけれども
よりよい日が来ようとしている、
 栄光に包まれたふるさと、
私たちはそこで、完全な平和の中で出会う

コーラス

 

天の父なる神さま、インターネットを通して、
今まで手の届かなかった
さまざまな情報に出会うことができて感謝します。
見知らぬ人と賛美を共にできることを感謝します。

f:id:holala:20211122202041j:plain

散歩道で(高円山)



 

使徒パウロの思い

 今、第二コリントを少しずつ読み、思いめぐらしています。昨日、11章1~6節を読んで感動を覚えたのでお知らせします。パウロによれば偽使徒とされる人がコリント教会に来てパウロを批判し、その結果パウロとコリント教会の関係は悪化しました。そこでパウロは手紙を書いています。この箇所でパウロはこう書いています。

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」。

 パウロは、神が抱いている熱い思いを知っているのです。こういう言葉を書くこと自体が驚きです。神の思いを知ることは簡単ではないと思います。それを「知っている」と書くのですから、驚きです。そして神が抱く熱い思いを自分も抱いていると書きます。そして自分のしたことを紹介し、熱い思いを抱いていることを証しします。パウロは、伝道者としての思いをこう書きます。

わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。

 パウロはコリント教会の人たちを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたと書きます。パウロはコリントの町で伝道して教会を設立しました。パウロにとって伝道とは、単に信仰者を増やすということではないのです。パウロはロマ書で次のように書いています。

ローマ 15:16
異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。

 異邦人を信仰者にするとは、彼らを神に喜ばれる供え物にすることだというのです。これと似た思いが第二コリントのこの箇所にも言い表されているように思います。伝道とは単に信者を増やすことではないとパウロは語ります。神の熱い思いを抱くことだというのです。それは具体的にどういうことなのでしょうか。

 神の熱い思い。それは神を信じる人が神のものになること、神を愛する人、神を喜ぶ人、神に仕える人、神に信頼する人、神を誇る人になることだと思いました。このことを神が切に願っているというパウロの理解があります。そしてパウロはそうなるように努力したというのです。使徒と呼ばれる人の考えは深いと感じます。

 伝道者の意識改革の必要をこの聖書箇所は訴えているように思います。どんな思いで福音を宣べ伝えるのか。普通は信仰者を増やしたいとの思いです。それが神から与えられた使命だと考えます。しかしパウロの思いはそれを越えています。信仰者を花嫁として夫であるキリストに献げるというのです。さすがパウロ!

 このパウロの言葉は私にとって、うれしい言葉でもありました。私が牧師として現役で働いていた頃、私は信徒育成に力を入れました。伝道し信仰者になった人たちの信仰を育てるのです。それが今日の箇所で、それは神の熱い思いにつながると知り、自分の努力が御心に添っていたと知ったからです。

 伝道が困難な時代ですが、伝道の深い意味を知ることは大切なことだと思います。深い意味を知れば祈りも深くなり、伝道の道が拓けるかもしれません。

f:id:holala:20211119213859j:plain

よく散歩する里山

 

キリストにより豊かにされた私(8、最終回)喜ぶ心 

コリント二 8章9節
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 キリストによって豊かにされた私の8回目は<喜ぶ心>です。喜びということで思い出される聖句があります。

テサロニケ一 5:16 
いつも喜んでいなさい。

 これを読んでクリスチャンは、いつも喜べるようなことがあるわけではないので、いつも喜ぶのは無理だ、と思ったりします。この聖句は喜べることをさがして喜びなさいということではないと思います。かつてこの聖句を思い、喜びを数えたことがありますが、それは無理であることが分かりました。

 何かあったから喜ぶ、というのではなく、自分の現実を受け入れることができることを喜ぶことを教えていると思います。日々の生活には色々なことが起きます。色々な感情・思いが湧いてきて心が落ち着きを失い騒ぐことがあるかもしれません。それは心の表面上のことです。

 信仰から来る喜びが心の底にあります。イエス・キリストを信じ、罪から救われ、信仰によって生かされていることが心の底にある喜びとなっています。日々の生活で色々な思いが湧いてきても、心の底にある喜びが失われることはありません。これからも失われることはないと信じています。何かがあって~だけれど、それにもかかわらず心は喜んでいるという私です。

讃美歌527「わがよろこび、わがのぞみ」があります。その5番の歌詞はこうです。

ならびもなき愛の主の
みこえぞうれしき
わがのぞみ、わがいのちは
とわに主にあれや

 私は主のみ声を聞く思いで日々聖書を思いめぐらしています。

 

 聖霊の実は、愛、喜び、平和・・・。平凡な私にも聖霊の実が与えられています。感謝。

f:id:holala:20211118214433j:plain

リンドウ