クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(61)恵みの下に生きる

 私たちが罪の支配から自由になるために四つのポイントがあります。

  1. 自分の無力を認めること
  2. 神の力に信頼すること
  3. 支配領域の外に出ること
  4. 解放を願う意志を持ち続けること

 罪に打ち勝つには私たちは自分が無力であることを認めること、次に神の力への信頼です。キリスト者の場合は、キリスト者はキリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きることを指摘してきました。キリストに結ばれる、これが大切です。今回は第三のポイントです。

 エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民を神は、エジプトから脱出させました。つまりエジプト王の支配領土の外に連れ出したのです。領土外であればエジプト王の力は及ばず、その支配から解放されることになります。

 キリストはご自身に結びつけたキリスト者を、ご自分のいるところにいるようにします。キリスト者はキリストと共にいるのです。そのことを聖書は、キリスト者は「恵みの下にいる」と書いています。

ローマ 6:14
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 キリスト者は律法の支配下から、恵みの支配下に生きる場所を変えます。つまり律法の支配の及ばない恵みの支配下に生きるようになったのです。その結果、罪から解放されます。

 罪の支配=律法の支配と考えることができます。律法が「しなさい」と言えば、人は「したくない」と言い、律法がするなと言えば、「人はしたい」と言い、結局自分の思いを遂げます。つまり罪を犯します。人とはそういう存在であることを創世記3章のアダムとエバが神の戒めを破って、とってはならない木の実を食べた物語が教えています。このアダムとエバはあなたであり、また私のことです。

 律法が支配するところ、罪の支配が生じます。しかしキリストを信じる者はキリストに結ばれ、キリストのおられるところ、つまり恵みの支配下に生きることになります。その結果、罪の支配から抜け出るのです。

 主イエスが活動を始めたとき、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と声を上げられました。神の国は神の御支配を意味し、神の御支配の下に生きるように招かれました。神の御支配の下に生きることができる、それが福音です。

落ち葉 散歩道

 

平和の主イエス・キリスト

 今日は朝、聖書を読む前にクリスマスの讃美歌を歌いました。心に残る歌詞がありました。讃美歌94番「久しく待ちにし」。その3番の歌詞はこうです。

ダビデの裔(すえ)なる 主よ、とく来たりて
平和の花咲く 国をたてたまえ
主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

讃美歌114番「天なる神にはみさかえあれ」その4番。

み使いのうたう やすききたり
ひさしく聖徒の 待ちしくにに
主イエスを平和の 君とあがめ
あまねく世の民  たかく歌わん

 あらためて主イエスは平和をもたらす救い主であることを教えられました。

 私たちの生きている世界では、平和が祈り求められています。ロシアのウクライナ軍事侵攻は、力による他国侵略です。他国の主権を無視する行為で、許されない行為です。私はウクライナに平和が戻ることを祈っています。

 世界の歴史の中で戦争が起きていない時はなかったと聞いたことがあります。世界の現実を見るとき、その通りだと思います。どこかでいつも戦争があるこの世界。

 讃美歌は、主イエスの平和を待ち望んだ人々がその平和の到来を喜ぶ歌詞となっています。いつの日か主イエスが再臨される日に待ち望んだ平和が訪れるとの讃美歌、主イエスが平和をもたらすとの讃美歌の言葉は希望の言葉です。

 「平和の花咲く国をたてたまえ」との祈り。「主イエスを平和の君とあがめ、あまねく世の民たかく歌わん」との希望。この祈りと希望は、決して空しくなることはないと讃美歌を通して教えられました。私は主イエスを平和の君と崇め、あまねく世の民と共にたかく歌う日を待ち望む者になります。

紅葉 猿沢の池

 

 

人生航路の第二段階(60)私たちの死と復活

 パウロのようにキリストに出会い、キリストに結ばれ、劇的な回心を遂げることはだれもが経験することではないと思います。私は経験していません。

 キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に新しい人として生きるようになることは、私たちの平凡な信仰生活の中でも、気がつかない形で静かに進行しているのではないでしょうか。

 ある時、私は聖書つまり神の言葉を物事を考えるときの土台にすることにしました。人間の経験、知恵、他の人たちがどのように考えているのか、など人間的なものより神の言葉を優先して考えるようにしたことがあります。どうしてそう考えるようにしたのか今はもう思い出せません。

 今思うとその時、人間の経験、知恵によって、つまり人間的なものによって生きる私が死に、御言葉によって生きる私が誕生したことになります。

 その時は自分の身に起きたことが何であったのか知りませんでしたが、私はキリストに結ばれ、御言葉によって生きる人間へと導かれたのです。人間の経験、知恵によって歩む私は死に、御言葉を土台にして生きる私が誕生していたのです。

 ある時、教会員の一人が折に触れてある姉妹のことを批判する言葉を私に語りました。何度も聞くうちに批判の言葉を聞くのがいやになった私は「その姉妹のために執り成しの祈りをしませんか」と話しました。そして私は、その教会員のために執り成しの祈りをするようになりました。他者を裁く私が死に、他者のために執り成す私が誕生しました。

 私たちは自分がキリストに結ばれているかどうか、意識していないかもしれません。罪を犯す私が死に、愛に生きる私が誕生する、そういう経験をキリスト者はしているのではないでしょうか。とすれば、それは私たちがキリストに結ばれていることを示しています。

 私たちはキリストに結ばれていると信じて、罪を犯す自分に死に、新しい自分として生きる努力をしてもいいのではないでしょうか。キリストは私たちをご自身に結びつけてくださるお方です。

銀杏(イチョウ)の木 散歩道

 

人生航路の第二段階(59)パウロの死と復活

 キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に生きる人になった人を紹介します。それは使徒パウロです。彼はキリストと出会いました。その結果、キリスト教徒の迫害者であるパウロは死に、キリストを宣べ伝える使徒パウロが誕生しました。

 使徒言行録9章によれば、クリスチャンを迫害すべくダマスコの町に向かっていた彼に復活した主イエスが現れました。そしてパウロは主イエスを宣べ伝える者とされました。

 この時パウロに何が起きたのでしょうか。神に対する熱心のゆえにクリスチャンを迫害していたパウロです。イエスが救い主であることが分かったとき彼が受けた衝撃は大きいものであったと思います。神に対する熱心のゆえに迫害してきたことが、まったく神の御心に反していたことが分かったのです。ショックだったと思います。パウロの罪は不道徳な罪ではありません。神に対する熱心のゆえに行動していたことが神に逆らう行動だったのです。神に対する反抗という罪を犯していたのです。

 どこでどう間違ったのか。パウロは考えたと思います。ガラテヤ書2章で、人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされると知ってキリスト・イエスを信じましたと語っています(2:15)。そしてパウロは、迫害者であった自分がイエスにより赦されていることを確信したと思います。そして主イエスを宣べ伝える者として歩むことになりました。

 そしてこの出来事によってパウロは全く別な人間に生まれ変わりました。迫害者パウロは死に使徒パウロが生まれました。まさにキリストと共に死にキリストと共に生きる者となったのです。

 彼にどんな変化が生まれたのでしょうか。何を誇りとするのか、誇りの内容が変わりました。自分を誇ることから神を誇ることへ、誇りが変わりました。

 以前のパウロは、律法の義については非のうちどころがない自分を誇りました。自分の出自(イスラエルの民に属し、ベニヤミン族出身)を誇りました。ファリサイ派に属することを誇りました(フィリピ3章)。

 その彼がキリストの十字架を誇る使徒となりました(ガラテヤ6:14)。また自分の弱さ以外には誇るものがないと断言するパウロになりました(コリント二12:5)。自分を誇るパウロが死に、神を誇るパウロが生まれました。

 それだけではありません。パウロにとって主イエスを宣べ伝えることはキリストと死を共にし、復活を共にすることでもありました。

コリント二1:8~10
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。

 パウロにとって宣教における苦難は、キリストの苦難を体験することであり、苦難からの救いをキリストの復活を体験することとして味わいました。さらにパウロは語ります。

ガラテヤ 2:20
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。

 自分のために生きていたパウロが死に、キリストのために生きるパウロが生まれました。

 人はキリストと結ばれるとき、古い自分が死に、新しい自分が生きることになります。

イチョウの落ち葉 奈良公園

 

人生航路の第二段階(58)キリストの方法

 罪から解放されるために私たちは神さまに助けを求めます。そしてキリストに助けを求めます。キリストはどのように私たちを解放してくださるのでしょうか。答えがローマの信徒への手紙6章にあります。

ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 私たちは洗礼を受け、キリスト・イエスに結ばれます。結ばれた結果、キリストと共に葬られ、さらにキリストが死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きる、とあります。

ローマ 6:5
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 3~4節と同じ事を違う言葉で表現しています。私たちはキリストと一体になるとあり、さらにキリストの死の姿、復活の姿にあやかるとあります。「あやかる」とは似た者になるとの意味です。

ローマ 6:8
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 私たちはキリストと共に死に、キリストと共に生きると短く表現されています。

ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。

 洗礼を受けたキリスト者は、キリストに結ばれ、キリストと一体になります。キリストに結ばれているゆえに、キリストと死と復活を共にします。その結果、罪の支配からの解放が起きるというのです。

 私たちが死と復活をキリストと共にすると言っても、私たちの死は肉体の死ではなく、私たちの復活は死者からの復活ではありません。敢えて言うなら、それは霊的な死と復活と言うことができます。その結果、私たちは罪から解放されるとパウロは書きます。

 

もみじの紅葉 奈良公園

 

人生航路の第二段階(57)罪から解放するキリスト

 罪からの解放を考えるときの4つのポイントの2番目のポイントを取り上げます。それは「神の力に信頼すること」です。エジプトでの奴隷状態からの解放では、神の力はエジプト王の力にまさり、イスラエルの民は神の助けでエジプト王の支配から解放されました。それでは罪からの解放の場合はどうなのでしょうか。

ローマ 1:16
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 福音は神の力とあります。この神の力が信仰者を罪から解放する力とならないなら、神の力に何の意味があるのでしょうか。

コリント二 2:14
神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

 神は信仰者にキリストの勝利の行進に連ならせてくださいます。救いという勝利、それは罪からの解放を含む救いではないでしょうか。罪から解放された信仰者はキリストの香りを漂わせるのです。ハレルヤ!

エフェソ 1:19~21
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

 わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるようにとの祈りです。神の絶大な力は、信仰者を罪から解放する力でもあると信じます。さらにキリストはすべての支配、勢力の上に立っています。キリストは罪の支配の上に立つ方、私たちを罪の支配から解放してくださる方です。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

 御父は、わたしたちを闇の力から救い出してくださいました。闇の力からの救いに、罪からの解放が含まれていないのなら、闇の力からの救いって何なのでしょうか。

ヨハネ黙示録 1:5~6
わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

 わたしたちをご自分の血によって罪から解放してくださった方、それはイエス・キリストです。

 イエス・キリスト、そしてイエス・キリストの父なる神は、私たちを罪から解放してくださる方です。この方に信頼し、助けを求めることが罪から解放されるために大切なことです。

キクイモ 散歩道

 

墓前礼拝にて

 この間の日曜日、奈良高畑教会では礼拝後、墓前礼拝が行われました。墓地を移転し、新しい墓地での最初の墓前礼拝でした。私と妻は、双子の孫を連れて礼拝に参加しました。

 5歳の孫が「あのお墓の中に何があるの」と聞くと妻は「骨よ」。すると「骨だけなの。皮はないの」と孫。

「お墓にあるのは骨だけど、新しい体にしてもらって神さまのところに行くのよ」。「おばあちゃんも死ぬの。いつ死ぬの」
「神さまからのお仕事がまだあるので、まだ死なないわよ。あなたたちが生まれて、あなたたちの世話をするために奈良に来たでしょ。まだあなたたちが大きくなるまで、ママのお手伝いがあるのでまだ死なないと思うわ」
「ふ~ん。死ぬ時ってどんなふうに死ぬの」
「目つぶって息しなくなるの」
「死ぬ時ってどんな気持ちなの」
「おばあちゃん死んだことがないから分からないわ」。

 まだ次男が幼いとき、妻の父が亡くなりました。火葬場で棺に花を飾ったとき、次男は楽しそうに花を飾りました。おじいちゃんをきれいに飾ってあげたいと思ったのでしょう。火葬が終わり、出てきた骨を見て次男は泣き出しました。おじいちゃんの姿が消え、骨になったのです。火葬場からの帰り、私は彼を抱きながら、「骨と骨が集まり、そこに肉がつき、皮がつき、人となるんだよ」と聖書の話をしました。その後、息子は「早く天国に行きたいな」とよく話していました。

 幼い頃に人の死と出会うのはいいことだと思います。その時、希望のあることを伝えることができるのは幸いなことだと思いました。

ヒメジョオン 散歩道