クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(65)自由意志

 人間には自由意志が与えられています。政治制度によっては自由が制限され、自由意志を発揮できないこともあります。民主主義の国では自由意志を享受できます。人権が重んじられ、個人の自由意志が尊重されるからです。

 では人間には自由意志があるので、人間は罪を犯さないで生きることができるのでしょうか。「できない」というのがキリスト教の教えです。古代において、また16世紀において論争がありました。古代のアウグスティヌス、16世紀宗教改革者のマルチン・ルターは、人間は罪を犯さないで生きることはできないと主張しました。

 ここで言う罪とは神に対する罪のことです。神の戒めに背く行動をすること、それが罪です。人間は神の教えに背かないで生き続けることはできないと聖書は語ります。

 自由意志があるのになぜ?と思います。罪を犯しそうになったら、それとは逆の選択をすれば良いわけですから、罪を犯さないで生きることはできそうに思います。しかし現実には、罪を犯さないで生きる人はおらず、人は罪を犯して生きています。

 現代人として私は次のように考えます。人間は完全な存在ではありません。限界を持つ存在です。全能ではなく、寿命にも限りがあります。このような限界を持つゆえに、どういうわけか人は罪を犯してしまうと私は考えます。人間は何事でも自分の思い通りにできるわけではありません。それなのに自分の思い通りにしようと思い、行動すれば、ひずみや破れみたいなものを生み出します。無理が通れば道理が引っ込みます。つまりそこで罪が犯されているのです。

 聖書は人間が罪を犯す場面を書いていて示唆的です。聖書の最初の創世記でアダムとエバという二人の人間が神の戒めを破ったという物語があります。この物語は、このアダムとエバは、あなたのことだと語りかけます。何が書かれているのでしょうか。

 神に造られた人間アダムとエバは、エデンの園に住んでいました。園にあるものは何でも自由に食べてよかったのです。食べるものに不自由することはありません。神は、エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない。それを食べると必ず死ぬと警告しました。

 しばらくの間、彼らは神の警告に従っていました。ある時、蛇が登場しました。「あの木の実を食べても死なないし、食べれば神のように賢くなれる。それを知っているから神は食べてはいけないと言ったのだよ」と語りかけます。すると彼らは木の実をとって食べたのです。神の警告に背き、罪を犯しました。

 どうでしょうか。あなたもとって食べますか。蛇の誘惑を断固拒否して食べないでいますか。どうでしょうか。

 この物語には、禁じられた木の実を食べたいという人間の欲が示されています。さらに自分は自分の思い通りに行動したい、自分の思い通りに行動して何が悪いのか、という思いが示されています。

 この物語は一つの例です。聖書にはいくつも罪の物語があります。次の物語は、ダビデ王の物語です。

乙女椿 春日大社萬葉植物園

 

 

 

ユダの裏切り

 マルコ福音書のディボーションを続けています。先日、14章10~11節を読みました。

マルコ14:10~11
十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

 たったの2節ですが、イスカリオテのユダが主イエスを裏切る行動を起こしたことが書かれています。これを読んで思いめぐらします。

 ユダがなぜ、イエスを裏切ろうとしたのか、その理由は聖書には書かれていません。サタンがユダの中に入ったという説明がルカ福音書、ヨハネ福音書にあります。サタンは悪魔のことです。日本語には魔が指すというような言葉もあります。いつもなら絶対にすることがないことをしてしまう時に、魔がさしたと言います。ユダは主イエスの弟子として主イエスと行動を共にしていましたが、主イエスを裏切ります。主イエスを売るのです。

 主イエスが捕らえられる場面においては、他の弟子たちが主イエスを見捨てて逃げてしまい、主イエスを裏切りました。

 弟子のペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主イエスに語りました。しかし主イエスが捕らえられたあと、別の場面で「あなたはあの人と一緒にいた」と言われ、恐れにとらわれたペトロは自分を守るために三度も「あなたが何のことを言っているのか、私には分からない」言いました。彼も主イエスを裏切りました。

 ユダやペトロのような裏切り行為は重大です。もしかしたら私たちは、自分はそのようなことはしないと考えるかもしれません。確かにユダやペトロのようなことはしないかもしれません。しかしユダやペトロの行為はわが身の行為ではないかと思います。

 私たちは日々の生活の中で、これはしてはいけないと知りながら、まあいやと、それに身をゆだねることがあります。小さなことだからいいや、と身を任せてしまうのです。小さいゆえに、そうすることを自分に許容するのです。

 ユダの行為は主イエスの死を導くという点で重大な罪でした。私たちが日々の生活で、本当にちょっとした小さなことにおいて、神さまのみ心に反することに身をゆだねることがあるとするなら、それは小さな行為に思えるかも知れません。しかし神さまの目から見れば、罪を犯すという点でユダやペトロと同じだと思わされます。

 私は朝晩ていねいに歯磨きをしていますが、歯磨きに手を抜くことや、忙しさに紛れて朝の歯磨きを省略したりすることがあります。まだ磨いていないと気づいてもまあいいや、です。きちんとすべきだと分かっていても、さぼることをわが身に許してしまいます。怠け心のあることも知ります。怠け心、これもまた罪へと私たちを誘う危険なものであることに気づきます。

 ユダの心がわが身にはないとは断言できないことを思います。

三波川冬桜 春日大社萬葉植物園

 

人生航路の第二段階(64)罪からの解放とは

5 罪からの解放とはどういうことでしょうか。キリスト者は本来、罪から解放された存在です。この解放されたキリスト者を成熟したキリスト者と呼ぶことにします。私たちが洗礼を受けキリスト者になったからといって突然成熟したキリスト者になるわけではありません。言い換えるとキリスト者というのは、成熟を目指して成長する者であると考えることができます。成熟の過程で、罪からの解放を経験していきます。

1.罪から解放されるとは、まったく罪を犯さなくなることではない。

 キリスト者が罪をまったく犯さなくなるのは神の国に迎えられた時です。言い換えると、この世に生きる限りキリスト者は、この世にあって罪を犯す可能性があるし、罪を犯します。

2.罪から解放されるとは、具体的なある罪を犯さなくなることを意味すると考えます。

 パウロは語りました。

ローマ 7:15~17
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

ローマ 7:18~20
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 わたしの中に住んでいる罪のために、私たちには神のある戒めに従おうとしても従うことができない、そういう戒めがあります。この戒めを実行できるようになる、それが罪から解放されることと考えます。

3.罪から解放されるとは一回限りのことではない

 私たちは生活の中でさまざまな状況に遭遇し、新たに実行できない戒めに直面します。その都度、この戒めを実行できるようになる、それが罪から解放されることと考えます。罪から解放されるとは一回限りのことではありません。

 実行できない戒めが実行できるようになるのは、キリストの助け、聖霊の助けを得てのことです。キリスト者は恵みの支配下におり、神の助けを得ることができます。それゆえ、本気で願い、本気を行動で現せば、今までできなかった戒めを実行できるようになります。本気で行動に現すとは、戒めに従う行動の一歩を踏み出すことです。一歩を踏み出せば、世界が変わります。戒めに従うことのできたことに驚きと感謝と喜びが訪れます。神さまの恵みの中に生かされていることをはっきりと知るようになります。

イロハモミジ 散歩道

 

主と共にある平安の日々

 月曜日のブログに「毎日単調な日々を過ごしていると、ふと自分は何のために生きているのだろうという思いが心をよぎります」と書きました。

 友人から来た手紙の中に「How can I keep from singing」(私は歌わずにはおれない)という言葉と共に友人の詩が書いてありました。今週、こういう題の英語の讃美歌があるのではないかと調べたらありました。讃美歌の歌詞と友人の詩は異なっていました。友人は、詩を書かずにはおれない自分の気持ちを「How can I keep from singing」と書いたのです。

 私は、英語の讃美歌をユーチューブで聞き、歌詞を確認しました。すると「私の喜びと慰めが消えたとしても、主が生きている。暗闇が私を取り囲んでも、主は歌を与えてくれる」という歌詞があり、立ち止まって考えました。

 喜びと慰めが奪われて望みがなくなっても主が生きておられる、と励ましが歌われています。それなら「単調な日々」とは言い換えると、「主と共にある平安の日々」であるとの思いが湧いてきました。心のどこかで、単調な日々→何もしていない→大事なことができていない、と考え、その挙げ句、自分は何のために生きているのかなどと考えたのだと思いました。

 苦しく暗闇の中にいる時でも主が共におられることを信じて生きるなら、単調な日々は主の守りの中にある日々として感謝し、もっと喜んでいいと思いました。心が喜ぶのを頭が押さえているように思えて、心を解放したいと思いました。意義ある日々を送らなければならないという考えに縛られていたのかもしれません。

 そこで思い出して、『わたしはよろこんで歳をとりたい』(イェルク・ツィンク著 こぐま社)をひらいて、探しました。

かつて自分がやったことは
いまは若い人の課題
いまは 若い人たちが
よくやってくれるようにと願い
神の助けを 祈っている

 

人生航路の第二段階(63)本気で求めること

 エジプトの奴隷状態であったイスラエルの民は、その苦しさから、神に助けを求めて叫びました。その願いに神は答え、イスラエルの民をエジプトから解放し、自由に生きることのできる土地へ導かれます。イスラエルの民は意気揚々とエジプトを出ました。その土地まで荒野の旅をします。エジプト軍が追いかけてきたり、飲み水がなくなったり、食べ物がなくて困ったりと試練が訪れます。たとえば、エジプト軍が追いかけてきた時、イスラエルの民は不平を言います。

出エジプト 14:11~12
我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。

 荒野で食べ物がなくなった時も民は不平を述べます。

出エジプト 16:3
イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」

 神は追ってきたエジプト軍を滅ぼし、食べ物のないイスラエルの民のために天からマナを降らせ、民を救いました。そしてついに約束の地を目の前にするところまで来ました。しかしこれから向かう地には強そうな民がいるということでイスラエルの民は前進することをためらい、言います。

民数記 14:2~3
イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」

 結局、ほとんどのイスラエルの民は神に助けを求めず、約束の地に入ることができず、荒野で亡くなりました。神に助けを求めれば約束の地に入り、自由な民として生きることができたのに。

 イスラエルの民はエジプトでの奴隷状態からの解放を願いましたが、本気ではありませんでした。本気なら、そのことを態度で示します。イスラエルの場合、どんな時も神に助けを求めればよかったのです。罪からの解放も同じです。本気かどうか。

春日大社萬葉植物園

 

人生航路の第二段階(62)キリストの勝利

 生まれつきの人間は罪を犯さないで生きることはできません。これが聖書の教えです。私たちが神を知り、神の教え、戒めを知ると、私たちは教えに背き、戒めを破り、罪を犯す存在であることを知ります。神を知らない人間は自分が罪を犯していることを知りません。

 では人はなぜ罪を犯すのでしょうか。

 昔から人間には原罪があり、人は罪を犯すと説明されてきました。古代の神学者アウグスティヌスは、人間の本性が腐敗していると語りました。ハイデルベルク信仰問答には、人間の心は生まれつき神を憎み自分の隣人を憎む方向に傾いていると教えています。いずれも人間は罪を犯さないで生きることはできないことを語っています。

 聖書において使徒パウロは、わたしの中に罪が住んでいると語ります。わたしの中に住んでいる罪のせいで私たちは罪を犯さないで生きることができないと語ります。

ローマ 7:15~17
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

ローマ 7:19~20
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 わたしが望む善、私が望むこと、それは神の教え、神の戒めに従うことです。しかしそれができないのです。それはわたしの中に罪が住んでいるからだとパウロは語ります。

ローマ 6:6
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 わたしの中に罪が住んでいることを「罪に支配されたからだ」とも言います。
 キリストが十字架で死に復活されたことは、わたしの中に住んでいる罪の力が滅ぼされたことを意味します。罪はわたしを絶対的に支配する力を失いました。

 

 キリストは復活して死に勝利し、私たちに死をもたらす罪に勝利されました。キリストを信じ洗礼を受けたキリスト者はキリストに結ばれます。そしてキリストは罪に勝利する恵みをキリスト者に与えてくださいます。

 エジプトの奴隷状態からの解放を願ったイスラエルの民は、神の大いなる力によって解放されました。私たちはキリストの救いの恵みによって罪の支配から解放されます。聖書のメッセージです。

ヌルデの紅葉 散歩道

老いの中にあって

 先週眼科医に行きました。一昨年眼の手術をしたので定期的に検診に行っています。それとドライアイがあると診断されているので点眼液をもらっています。受診前の眼のチェックの時に看護師が、受診中の時に眼のチェックで医師が左の眼のまぶたを上げるのです。その時は何とも思いませんでしたが、後から眼瞼下垂の症状があるのだと思いました。眼のまぶたが下がってきて、視野を狭くします。加齢によるものと思います。

 紛れもない老化の現実を見る思いがして少々落ち込みました。それに加えて毎日単調な日々を過ごしていると、ふと自分は何のために生きているのだろうという思いが心をよぎります。

 そんな折、録画しておいた番組を見ました。「日本海/富山湾から太平洋/駿河湾までその距離およそ415Km。北アルプスから中央アルプス、そして南アルプスを、自身の足のみで8日間以内に踏破する Trans Japan Alps Race」。30人の参加者が挑みます。このレースはテレビで放映されるのでその都度録画して見ています。

 生やさしいレースではありません。選手は色々な思いを抱きながら山の中を歩き走りゴールを目指します。レース中の選手が自分の思いを語るのを聞きながら、何か対話をしているような思いで見ていました。

 ゴールを目指すという明確な目標がありますが、自分が今走っている意味は何だろうと考えながら走っている選手がいます。レースに参加する意味があり、ゴールまで走り通し、自分なりに設定した目標を達成するという意味があるのに、レースの厳しい状況の中で、ふと迷うように意味を問うのです。私は自分に重ね合わせてみることができました。

 ある選手が「新しい自分に会いたい」と語るのが印象的でした。76歳の私が、どんな新しい自分に出会うのかと思いました。新しい自分に会ってみたい!

 人生が神の国を目指す旅であるなら、聖書を読みながら神と共に歩んでゴールしたいと思いました。そして私にはパウロの書いたローマの信徒への手紙を正しく読み取りたいとの願いがあり、これは今取り組んでいます。これもゴールを目指したいと思いました。

 あ、そうだ。J.バニヤンの『天路歴程』をまた読みたい。

近所 散歩道で