クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(10)罪を赦す父なる神の愛

 旧約聖書によれば、出エジプトの体験をしたイスラエルの民は、シナイ山の麓で神と契約を結びました。神とイスラエルの民は互いに約束し、契約が成立しました。その約束とは以下の内容です。

神:私はあなたたちの神となる。
民:私たちはあなたの民となる。

 神は十戒をイスラエルの民に与え、いかに生きるべきかを教えました。その他に細かい教えもあります。もしイスラエルの民が罪を犯したときは、神にいけにえを献げ、赦しを求めなさいとの戒めがありました。

 イスラエルの民が罪を犯したとき、神は快く思いません。神と民との間の関係にひびが入ります。罪を犯す者を神は受け入れることができないからです。だから罪の赦しを求めるためのいけにえを献げるなら、つまり罪を贖(あがな)うためのいけにえをささげるなら、神はそのいけにえを受け入れ、罪を赦され、神と民との関係は回復します。

 関係を回復するということは信仰の世界だけのことではありません。人が他の人と喧嘩をして関係が悪くなったとします。その場合、悪いことをした方が謝罪し、相手がその謝罪を受け入れれば、関係が回復します。謝罪を受け入れなければ、両者の関係は破綻します。悪いことをした方が関係回復のために行動を起こすのです。そうしなければ関係は回復しません。

 神はイエスを罪を贖ういけにえとして差しだしました。そしてこのイエスを信じる者の罪を赦し、彼を義とし、和解してくださいます。言い換えると神と信仰者の交わりが再開されるわけです。

 これはよく考えるとおかしな話しです。罪を贖う責任は罪を犯した側にあり、罪を赦す側の神が、いけにえを差しだすというのは、おかしな話しです。論理的に間違っています。しかし神はイエスといういけにえを差しだされたのです。

 それは神が罪を犯した者を神との交わりに招きたいからです。神は人が神との交わりに生きることを願っているのです。そのために神の方からイエスを贖いのいけにえとして提供しました。神は人が神に背を向けて生きることを願わないのです。

 神はイエスをいけにえとして差しだし、十字架の上で、罪に対する怒りをイエスにぶつけたのです。罪に対する怒りを人間に向けないと言われたのです。そしてイエスを救い主と信じるなら、信じる者を神は赦し、神との交わりに招きます。ここには、人間を愛し人間を交わりへと招く神の切なる愛が示されています。

ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

教会の近所で

 

礼拝説教奉仕

 4月から無牧の教会の礼拝説教奉仕が始まることになりました。無牧とは、教会を牧会する牧師がいない状態を指します。礼拝を守り続けるために説教奉仕をする人が必要です。そこで隠退した牧師の奉仕が求められることになります。過去二年間、無牧の教会の礼拝説教奉仕をしました。

 地方の小さな教会ですと牧師の生活を支えることが困難な場合があります。教会では牧師の働きに対する謝礼を謝儀と呼びます。給与、給料ではありません。牧師は教会に雇われているわけではなく、神さまから遣わされているからです。教会では牧師の奉仕に感謝を表すという意味で謝儀を牧師に差し上げ、牧師の生活を支えます。小さな教会ですと、十分な謝儀をさし出すことができず、無牧の状態になることがあります。

 教会員が高齢化し、さらに教会員が減少し牧師を支えることができなくなる教会が生まれつつあります。教会の存続が危ぶまれる事態が生まれています。伝道の困難もまた事実であり、教会の将来が危惧されます。

 福音宣教は神さまの御業なので、いたずらに悲観せず、福音を宣べ伝え続けることが大切です。自分にできることとして、無牧の教会の礼拝説教奉仕をできることを感謝しています。

 教会に連なる人たちは、牧師がいないことをさびしく思うのではないかと思います。だから福音を説教し、教会員の皆さんを励ますことが私に与えられた使命と受けとめ、祈りつつ、聖霊の導きを求めつつ、説教奉仕をする予定です。

テモテ二 4:1~2
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。

タチツボスミレ 散歩道

 

神の愛を知る(9)キリストの愛のまとめ

 神の御子は、人となりイエスとしてこの世の歩みをしました。十字架で死に復活し、キリストとなりました。

  • 父なる神は御子に人となり、救い主としての働きをするように提案し、御子は受け入れました。そして時が満ち、神である方が人となりました。神であることに固執せず、人となられました。ここに人間に対する御子の愛があります。
  • 御子は人となったばかりでなく、救い主として十字架で亡くなりました。人間を救うために神である方が命を犠牲にされました。ここに人間に対する御子の愛があります。
  • しかも人々の嘲りを受けながら死を遂げました。人間を救うためにおいでになったのに、その人間から嘲られながら、死を遂げられました。人間の救いのためには自分の面子を捨てて命を犠牲にしました。ここに人間に対する御子の愛があります。
  • さらに御子は、御自分の記念としてパンとぶどう酒を弟子たちに配り、これを食するように命じました。これを食する者たちのうちに住んで下さいます。キリスト者の内に住み、キリスト者を生かしてくださいます。ここにも人間に対する御子の愛があります。

 キリストに愛されていることを心に留めて信仰の歩みをします。

散歩道で

 

神の愛を知る(8)私の内に住んでくださるキリストの愛

 キリストが私の内に住んでくださることは、キリストの愛と受けとめます。キリストが私を愛し、私の内に住んで下さいます。キリストがどのように私の内に生きてくださるのでしょうか。

ヨハネ 1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

 私たちの間に宿られたのはイエスです。神の言がイエスという人となってこの世に現れました。人となりました。そのイエスが今キリストとして私の内に住んでくださるとは、神の言が私の内で生きて働き、私を生かしてくださるということです。

ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 キリストが私のうちに生きておられるとは、神の言葉によって私が生きること、キリストによって私が生きることを意味します。神の言葉によって私が生かされるとは、私がキリストによって生かされることを意味します。聖書の言葉は文字としての教えではなく、キリストなのです。聖書を読み、思いめぐらすとは、私にとってはキリストと対話をすることです。

 キリストが私と共にいてくださるとは、御言葉がいつも私と共にあるということです。キリストは命の御言葉。命のパン。私はこのパンを食して歩みます。私の内に住んでくださるキリストの御心に従って歩む努力をします。

 私はこのように信じ、歩んでいます。

フキノトウ

 

神の愛を知る(7)自分を与えるキリストの愛

 一昨日の日曜日、教会で聖餐式が行われました。カトリック教会ではミサと言いますが、私たちは聖餐式と呼びます。パンとぶどう酒が配られ、いただきます。これは主イエスが「わたしの記念として行いなさい」と命じられたものです。

ルカ 22:19~20
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

 パンとぶどう酒は、十字架の上で槍で裂かれた主イエスのからだ、流された主イエスの血を表しています。パンとぶどう酒をいただき、主イエスが私たちの救いのために命を献げてくださったことを思い起こします。そして主イエスが、私たちを愛し、命を献げてくださったことを覚えます。

 パンとぶどう酒が私の体の中に入ります。私は主イエスが私の内に住んでくださると信じています。

ヨハネ 14:18~20
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

 主イエスは、十字架で亡くなり、世を去ります。しかし復活され、弟子たちと再会されます。主イエスは、私のうちにいてくださるとの約束がここにあります。主イエスは共にいてくださり、私は主イエスと結ばれて歩む幸いを与えられています。主イエスは私を愛し、死んでくださっただけではなく、私と共に生きてくださいます。

ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

サンシュユ 馬見丘陵公園



 

 

神の目に尊い信仰者の死(つづき)

 昨日のブログで「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」(詩編116:15)を取り上げ、信仰者の人生は神の目に喜ばれるものであると解釈してよいのではと書きました。

 ふと思いました。自分の信仰者としての歩みを考えると自分の人生が神の目に喜ばれるものであるとは思えないと考える人がいるのではないかと。

 私は、自分の努力によって神に喜ばれる者になれるという考え方は間違っていると思います。たとえキリスト者になっても自分の力によってよいキリスト者になろうとする考えは間違っていると思います。だから、そのような考え方に基づき、自分は神の目に喜ばれる者にはなれていないと考えるのも間違っていると思います。

 使徒パウロは、その意味では、信仰者としての自分の歩み、自分の努力を誇る人でした。しかし復活のキリストに出会ってパウロは変わりました。人間的な誇りはくずに等しいとパウロは語りました。

 大事なのは、神さまが与えてくださる救いの恵みを受け取ることです。これを十分受けとって生きるキリスト者を神さまは喜ばれると私は信じます。イエス・キリストによる救いの恵みとは何でしょうか。

  • キリスト者は賜物として聖霊を受けました。聖霊なる神が信仰者のうちに住み始めて下さいました(使徒言行録2章38節)。
  • 聖霊が住んで下さることによって信仰者は新しく生まれた者になりました(ヨハネ3章5節、コリント二5章17節)。
  • キリスト者はキリストに結ばれた者とされ、神の子とされました(ガラテヤ3章26節、ローマ8章14~15節)。
  • またキリストを信じる者を神は義と認めて下さり、神の目に義なる者とされました。キリスト者になっても罪を犯しますが、神さまの赦しを受けることができ、常に義なる者として神の前に生きる者とされました(ローマ3章22節、5章1節、エフェソ1章4節)。
  • 聖霊に導かれ、キリスト者は罪に打ち勝って生きていくことができるようになりました(ローマ6章7,14節)。

 以上が、信仰者としての成長に関係してイエス・キリストによって与えられる救いの恵みと私が考えるものです。もちろん、聖書に書かれていることです。この恵みを受け取って生きる人こそ神に喜ばれる人であると私は信じています。

マンサク 馬見丘陵公園

 

 

神の目に尊い信仰者の死

 先週は詩編116編のデボーションをしました。ディボーションというのは、聖書を読み思いめぐらし、神さまの導きを求める読み方です。20数年このやり方で聖書を読んできました。

 この詩篇の15節の言葉が素敵です。

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価(あたい)高い。
(新共同訳)

主の聖徒の死はそのみ前において尊い。
(口語訳)

主に忠実な人たちの死は、主の目に重い。
(聖書協会共同訳)

Precious in the sight of the LORD
 is the death of his saints.

(KJV)

 信仰者のことが「主の慈しみに生きる人」、「聖徒」、「主に忠実な人たち」、"saints" と訳されています。そしてその死は、「価高い」、「尊い」、「重い」、"precious" と訳されています。信仰者の死は主の目に価値がある、尊いものであるとのありがたい言葉です。

 信仰者の「死」は文字通り死を意味しているのか、それとも信仰者の「生涯」「人生」を意味しているのか、と考えます。私は「生涯」「人生」と考えたいです。そして主の目に「価高い」、「尊い」、「重い」は、信仰者の人生が神に喜ばれるものであると解釈してよいだろうと思います。

 信仰者の死、それは神に生かされ、神と共に生きてきた人生が幕を閉じることを意味します。自分の人生が神に喜ばれるものであるなら、それはうれしいことですね。

 死は人生の終わりですが、神の国への出発の時でもあります。死は仕方なく受け入れるものではなく、神に喜ばれる人生を送ることができたことを感謝し、御国への旅立つ時として受け入れることができるのではないかと詩編を読み思いめぐらしました。

ニオイスミレ すてきな香り