2025-04-01から1ヶ月間の記事一覧
老いて自分なりに色んなことを経験して、もう新しいことにチャレンジすることなんてないと思っていましたが、実益を兼ねた趣味ができました。
神はイエスを復活させました。死者の復活なんて、ありえない?神のみ業は人間の思いを越えます。
御国の子らと悪い者の子らが混在する世界。毒麦のたとえを読み、祈りを変えられました。
パウロは同胞イスラエルの民が救い主イエスを拒んだことに悲しみを覚え、心に痛みを覚えています。私も共感する思いがあります。
キリスト者は新しく生まれた存在です。キリスト者として生きて行こうと考えるのは新しく生まれた証拠です。
神には、キリスト者が聖なる者になって欲しいとの願い、計画があります。神はご自身との交わりにキリスト者を招き、その計画を実現させます。そこに義とされる目的があります。
信仰によって義とされた人が罪を犯したとするなら、義とされたことは取り消されるのでしょうか。それでもなお義とされ続けるのでしょうか。取り消されません。
イエス・キリストを信じる人は神の前に義とされます。キリスト者は神の前に正しい人です。でもキリスト者は罪を犯します。それでも正しい人?
教会に集う一人ひとりのキリスト者はキリストの体の部分であり、部分が集まってキリストの体である教会をつくっています。各部分は愛によって結び合わされています
教会はキリストのからだと呼ばれます。 キリスト者が一つとなって、それぞれが体の部分としてそれぞれの賜物を生かして教会の働きに仕える、それが教会だとパウロは語ります。
歳をとり、死のイメージが変化しました。死とは永眠。永遠の眠りから人は目覚めるのか否か。
罪の赦しは神の恵みです。神の恵みは罪の赦しだけではなく、私たちを神に従う信仰者にさせます。
神は救い主イエスを世に送りました。イエスは罪を赦すためのいけにえとして十字架で死にました。罪を赦す神の方から、罪の赦しのためのいけにえを出すなんてありえない?
聖書日課に従って聖書を読んでいると、思いがけなく、自分を生かした聖句に出会い、うれしく思います。
神によって与えられている救いの可能性を受け入れず、それを狭めているとすれば、それはつまずいているのではなる。私が抱くキリスト者の問題意識です。
イスラエルの民はイエスを信じることをしませんでした。彼らは、神が置いたつまずきの石につまずきました。