イエス・キリスト
聖書は、私たちが神の国に迎えられるとき、主イエスに似た者となることを語っています。
私は十字架のくしき光の中に自由を見ます。十字架の死を遂げた方こそ、私の主であり、この方は私を自由にしてくださいました。
十字架のくしきひかりを仰ぐとは、十字架の恵みを確認することと言い換えてよいと思います。この確認をしたいと思いました。今回は2回目。
十字架のくしきひかりを見るとはどういうこと?
「信仰」によって各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動を意味するなら、いわゆる「宗教」がつねにこの道程に沿うものとは言いがたい。
神である方が人となり、この世に生まれメシア(救い主)としての働きをします。しかし人々はこの人を信じるどころか死刑宣告をします。死刑宣告を受けたイエスを人々は愚弄します。
主イエスはゲッセマネの園で、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られました。主は何を悲しまれたのでしょうか。
キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に新しい人として生きるようになることは、私たちの平凡な信仰生活の中でも、気がつかない形で静かに進行しているのではないでしょうか。
キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に生きる人になった人を紹介します。それは使徒パウロです。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます(ローマ6:8)。
イエス・キリスト、そしてイエス・キリストの父なる神は、私たちを罪から解放してくださる方です。この方に信頼し、助けを求めることが罪から解放されるために大切なことです。
キリスト者はキリストに結ばれており、キリストと共に死に、罪から解放されました。
ロマ書には。キリスト者は、キリスト・イエスに結ばれた者であると書かれています。このキリストに結ばれた者であるということは、とても大切なことだと考えます。
聖書は世の終わり、終末について語ります。どのようにしたら信じることができるのか、悩みました。
讃美歌11番 生くるも死ぬるも、ただ主を思う ゆるがぬこころを あたえたまえ
あることがきっかけで、キリストに似た者となることを歌った讃美歌がないか、捜し始めました。今日時間があったので、讃美歌の最後までチェックしました。全部で4曲、ありました。
イエス・キリストを信じる者は神の義を与えられるとあります。ではなぜ、神は信じる者を義と認められるのでしょうか。
私たちは主イエスがご自身を犠牲にして私たちに与えてくださる恵みを受け取ることによって私たちは主につながります。
「たしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。この言葉で大事なことは、主イエスが私につながってくださるので、私たちも主イエスにつながることができるということです。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15章4節)。主イエスの素晴らしい約束です。
私はキリストに結ばれた時、その人は真のキリスト者になるのだと考えています。
イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神に対して従順に歩まれました。この方が私たちの罪の償いの供え物として十字架で亡くなられました。
福音は信じる者に自由、解放をもたらすものだと思います。新約聖書に出てくる重要な解放は三つあります。罪からの解放、律法からの解放、死の恐怖からの解放。
人生航路の第一段階は、生まれて方キリストに結ばれて生きることを恥始める前々までの段階です。
使徒パウロはこの世を去ってキリストと共にいることを熱望しています。パウロの心境に近づきたい。
キリストをもっと身近に感じたい、キリストと私が結ばれている、ひとつであることを実感できたらという思いがあります。
パウロはキリストに結ばれて生きる信仰者となり、罪を克服して生きる者とされました。
パウロにとって、キリスト者となることはキリストに結ばれ、キリストとひとつになることを意味していました。そのことは彼の生き方に現れましたが 彼の内面での出来事でもあったのです。
キリストと結ばれた者としてキリストを宣べ伝えています。彼の経験派、彼がキリストとひとつにされていることを示します。
窓から裏山を見ると若葉の緑がきれいです。先日まで裸であった木々が新しい葉を身にまといました。復活の喜びを暗示します。