イエス・キリスト
主イエスは受難の予告を弟子たちにしました。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるというのです。
キリストの父なる神への愛と神への忠実、キリストの人間への愛の先にキリストの苦難があります
置かれた場所で限られた人生の中で神に信頼し従順に歩みを全うする、それがキリスト者の生涯といえるのではないでしょうか。
キリスト者が神をたたえること、賛美することは大切なことと教えられます。でもどのように神をたたえたらよいのか。
洗礼を受け、キリストに結ばれるとはキリストと共に死に、新しい命に生きることです。
牧師の働きを終え、老いの日々を送る中、信仰について思いめぐらす日々を過ごしています。気づかされたことがあります。
ロマ書の6章1~11節をゆっくりディボーションしています。そしてこの箇所は何と凄い箇所なんだと驚いています。
キリストに似た者となることを目指すことはキリスト者の課題です。なぜならイエスは真の人であるからです。
他者を裁く私が死んで、他者のために執り成す新しい自分が生まれました。
キリストを信じて大きく変化したのは自己理解です。キリストに結ばれ、神の子として生きる自分となりました。
キリストに結ばれて自分はどのように変わったのか、振り返ります。
義とされた私たちが罪を犯したら、義とされたことは取り消されるのでしょうか。取り消されません。
キリスト者である自分がキリストに結ばれていることがどのようにして分かるのでしょうか。基本的には結ばれていると信じるだけです。
人は皆、アダムにつながる人として罪を犯し、罪の支払う報酬として死にます。しかしキリストを信じ、キリストに結ばれるとき、永遠の命を得ることになります。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
キリスト派どのように私たちを愛してくださっているのか。
キリスト派私の内に住んで下さいます。御言葉として私の内に。
一昨日の日曜日、教会で聖餐式が行われました。パンとぶどう酒をいただき、主イエスが私の救いのために命を献げてくださったことを思い起こします。そして主イエスが、私を愛し、命を献げてくださったことを覚えます。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。かみのあいは、之よりもさらに大きい愛であると教えられます。
御子は御父の提案を受け入れ、人となり地上の歩みをすることを受け入れます。神であるのに神の身分に固執せず、人となるのです。そこには御子の愛があります。
御子は御父によって世に遣わされることをどのように受けとめたのかと私は考えます。御父は御子に、「わたしはあなたを世に遣わしたいが、どう思うか」と御子の気持ちを聞いたと思います。
最後の審判を思うとき、すぐに心に浮かぶのは「こころを高くあげよう」(讃美歌第二篇1番)という讃美歌にある歌詞です。
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。再臨のキリストは栄光のキリストです。
聖書は、私たちが神の国に迎えられるとき、主イエスに似た者となることを語っています。
私は十字架のくしき光の中に自由を見ます。十字架の死を遂げた方こそ、私の主であり、この方は私を自由にしてくださいました。
十字架のくしきひかりを仰ぐとは、十字架の恵みを確認することと言い換えてよいと思います。この確認をしたいと思いました。今回は2回目。
十字架のくしきひかりを見るとはどういうこと?
「信仰」によって各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動を意味するなら、いわゆる「宗教」がつねにこの道程に沿うものとは言いがたい。
神である方が人となり、この世に生まれメシア(救い主)としての働きをします。しかし人々はこの人を信じるどころか死刑宣告をします。死刑宣告を受けたイエスを人々は愚弄します。
主イエスはゲッセマネの園で、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られました。主は何を悲しまれたのでしょうか。