イエス・キリスト
キリスト者はキリストに結ばれており、キリストと共に死に、罪から解放されました。
ロマ書には。キリスト者は、キリスト・イエスに結ばれた者であると書かれています。このキリストに結ばれた者であるということは、とても大切なことだと考えます。
聖書は世の終わり、終末について語ります。どのようにしたら信じることができるのか、悩みました。
讃美歌11番 生くるも死ぬるも、ただ主を思う ゆるがぬこころを あたえたまえ
あることがきっかけで、キリストに似た者となることを歌った讃美歌がないか、捜し始めました。今日時間があったので、讃美歌の最後までチェックしました。全部で4曲、ありました。
イエス・キリストを信じる者は神の義を与えられるとあります。ではなぜ、神は信じる者を義と認められるのでしょうか。
私たちは主イエスがご自身を犠牲にして私たちに与えてくださる恵みを受け取ることによって私たちは主につながります。
「たしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。この言葉で大事なことは、主イエスが私につながってくださるので、私たちも主イエスにつながることができるということです。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15章4節)。主イエスの素晴らしい約束です。
私はキリストに結ばれた時、その人は真のキリスト者になるのだと考えています。
イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神に対して従順に歩まれました。この方が私たちの罪の償いの供え物として十字架で亡くなられました。
福音は信じる者に自由、解放をもたらすものだと思います。新約聖書に出てくる重要な解放は三つあります。罪からの解放、律法からの解放、死の恐怖からの解放。
人生航路の第一段階は、生まれて方キリストに結ばれて生きることを恥始める前々までの段階です。
使徒パウロはこの世を去ってキリストと共にいることを熱望しています。パウロの心境に近づきたい。
キリストをもっと身近に感じたい、キリストと私が結ばれている、ひとつであることを実感できたらという思いがあります。
パウロはキリストに結ばれて生きる信仰者となり、罪を克服して生きる者とされました。
パウロにとって、キリスト者となることはキリストに結ばれ、キリストとひとつになることを意味していました。そのことは彼の生き方に現れましたが 彼の内面での出来事でもあったのです。
キリストと結ばれた者としてキリストを宣べ伝えています。彼の経験派、彼がキリストとひとつにされていることを示します。
窓から裏山を見ると若葉の緑がきれいです。先日まで裸であった木々が新しい葉を身にまといました。復活の喜びを暗示します。
使徒パウロは、キリスト者のことをキリストに結ばれた者と語ります。キリストに結ばれている、それがキリスト者の特徴あるいは本質だというのです。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。この聖句を自分のものにしたい。
十字架につけられ、人々からあざけられた主イエスはどんな気持ちだったのでしょうか。
十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうイエス様。どんな気持ちで十字架を背負っていたのでしょうか。
受難節を過ごしている今、イエス様はどんな思いで苦難の時を過ごしておられるのか、思いめぐらしました。
ゲッセマネの園でイエス様が祈る場面を思いめぐらしました。一番印象に残ることは、イエス様が恐れもだえたこと、そして「死ぬばかりに悲しい」と言われたことです。
主イエスが弟子たちにパンとぶどう酒を与えたのは何のためだったのか。三番目の意義について紹介
主イエスは弟子たちと最後の食事をしました。その中で弟子たちに裂いたパンを与え、杯を与えた主イエス。何のために?
私たちは洗礼を受け、クリスチャンになりますが、パウロは洗礼を通して、私たちはキリストに結ばれると書きます。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストを知る素晴らしさとは?
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。パウロはどんな気持ちでこの告白をしたのでしょうか。