イエス・キリスト
人を批判し裁く思いは誰にもあります。そのような思いが湧いたら、執り成すことが大切です。
信仰者になって愛を知り、神さまの助けにより人を愛する人間に変えられて生きてきました。
自分の不明を恥じて、残りの人生の課題を知る。
キリストと出会ってパウロの心はどのように変わったのか。一つ確かなことは、彼は自分がみじめな人間であると悟ったこと。
キリストの十字架を私が誇る理由。それは私がキリストとひとつにされて歩むことができるようになったからです。
今まで内に秘めていて言葉にしていなかった思いがありました。今それを言葉に出して言います。
パウロはキリストと出会い、それまで誇りにしていたものが塵になったと語ります。何が起きたのでしょうか
イエス・キリストを知る素晴らしさはパウロの生き方を変えました。それでは私たちは?
パウロは「主に喜ばれる者になりたい」と書きました。私もそうなりたいです。
福音は力と聖書にあります。この力は私にどのように働きかけたのか、振り返りました。
キリストは人類の罪を背負われたと説教者としての私は語ってきた。そんな私が反省したことは
いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と語られたイエス様の言葉。どう受けとめたらいいのか。
イエス・キリストの十字架を神の計画という視点から考えます。神さまは世界を創造する時に十字架を計画しておられました。
十字架の上でひとびとからののしられ、あざけられ、侮辱されたいえす。みじめなすがたをさらすのはなぜ?
キリスト者が新しい人として生きていく理由。第一のりゆは神の国を目指して生きているから。
イエス様は御子として父なる神さまに親しみを感じていると思います。自分もそのような親しみを感じたいとの願いがあります。
イエス様は「あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る」と語り死刑にあたると裁かれました。。
ゲッセマネの園で祈り。祈りの中で、十字架への道を決断するイエス。そして「立て、行こう」と前進するイエス様
ゲッセマネの園で主イエスは祈られました。そのとき、「死ぬばかりに悲しい」とイエス様は言われました。何を悲しまれたのでしょうか。
イエスは真の神そして真の人。このイエスは私にどんな励ましをもたらすのでしょうか。
キリストに結ばれた私たちは死にました。どういうことでしょうか。このことを理解することは救いの大いなる恵みへと私たちを導きます。
キリストに結ばれるってどんなことでしょうか。キリストがいつもわたしと共にいてくださるということ?それ以上のことです
イエス・キリストを信じる人はキリストに結ばれています。もしキリストに結ばれていると考えないと私たちは根無し草の信仰者になってしまいます。
私は命であるとイエスは語りました。あたらしいいのちにいきる、それはイエス・キリストととの関わりに生きることです。
イエス様はラザロの死を嘆きなく人たちを見て、心に憤りを覚え、また涙を流されました。
「わが君イエスよ われをきよめて」。 イエス様は私を清めてくださる、うれしいメッセージです。
「主われを愛す」の一節。 みくにの門を ひらきてわれを 招きたまえり いさみて昇らん 希望を与える言葉です。
主イエスは、「さかえを捨てて」人となられ、十字架につき、私を救ってくださいました。感謝です。
主われを愛す。クリスチャンならだれもが知っています。主の強さを知る人は幸いです。