人生
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます(ローマ6:8)。
イエス・キリスト、そしてイエス・キリストの父なる神は、私たちを罪から解放してくださる方です。この方に信頼し、助けを求めることが罪から解放されるために大切なことです。
罪の支配下にあること、あるいは罪の奴隷であるとはどういうことかを明らかにします。
イスラエルの民のエジプトでの奴隷状態からの解放、イエス・キリストによる罪からの解放には共通点であります。
出エジプトの出来事は、神の民は捕らわれから解放された自由な民であることを伝えています。そしてこれはキリストを信じる群れもまた捕らわれから解放された群れであることを指し示しています。
キリスト者はキリストに結ばれており、キリストと共に死に、罪から解放されました。
ロマ書には。キリスト者は、キリスト・イエスに結ばれた者であると書かれています。このキリストに結ばれた者であるということは、とても大切なことだと考えます。
聖霊の助けを与えられて神の御心を大切にしていくとき、キリスト者は神の御心に従おうとの意志が強められます。
愛するとはどういうことなのでしょうか。愛するとは、基本的に相手の存在、相手の人格を大切にして、相手と関わることと私は考えています。
キリスト者が、喜んで、進んで神の戒めを守る努力をする理由は何?
神の戒めで一番大切な戒めは、神を愛することです。神を愛するってどういうこと?神を愛するとき、どんな感情を抱くのか、昔考えたことがあります。
人がキリスト者になると、神の教えに従おうとの思いを抱くようになります。しかし、従いたくない心があることに気づきます。
キリスト者が神の御心に従う歩みを始めると大きな悩みに直面します。自分は神の御心に従いたいと願いますが、それに反抗する思いが心の中にあることに気づくのです。
神さまが人間を創造されたとき、人間は神さまの目に良い存在でした。しかし現実の人間には一つ問題があります。それは人間の自然本性の腐敗です。
イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストを結ばれます。イエス・キリストに結ばれたキリスト者には、神の約束が与えられています。
信仰とは「神さまの約束を信じて生きること、だから神さまは信じる者を義とする、これが私が推理する答えです。
悔い改めは、同じ罪を繰り返さないという決心だけではなく、神さまの御心に生きることを大切にするという決意でもあります。さらに言えば、自分第一の生き方から神第一の生き方に転換することです。
罪の赦しを考えるときに大切なことは、罪の赦しは最終目的ではないということです。罪の赦しは「神との和解」を目指しています。
神さまは、神の言葉を信じるアブラハムの信仰を義としました。信仰とは、神さまの恵みを受け取る管のようなものです。管を通って恵みが私たちのもとに来ます。
神さまがイエス・キリストを信じる者を義と認める、正しい者と見なす、これが信仰義認の教えです。そもそも信じるとは何を信じることなのでしょうか。
信仰によって義とされたことを本気で信じるための出発点は「信じる」とは何を意味しているかを知ることです。キリスト者は事実を大切にしますが、事実に基づいてる生きるのではなく、信仰によって生きます。
主イエスにつながって受け取る最初の恵みは、信仰によって義とされることです。私は、この教えをどれほどのキリスト者が本気で信じているのか、と疑問に思っています。
私たちは主イエスがご自身を犠牲にして私たちに与えてくださる恵みを受け取ることによって私たちは主につながります。
「たしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。この言葉で大事なことは、主イエスが私につながってくださるので、私たちも主イエスにつながることができるということです。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15章4節)。主イエスの素晴らしい約束です。
キリスト者としての成長を考えるとき、自分はぶどうの木の枝と考えるのもよいと思います。ヨハネ福音書15章にある主イエスのたとえです。
キリスト者に与えられた「いのち」に必要なものは霊の乳です。霊の乳とは神の言葉のことです。
いのちは生命力府溢れています。キリスト者は神さまから与えられた「いのち」の働きにゆだねて成長します。
ルカ福音書15章の放蕩息子の歩み。私たちの信仰成長の一つのパターンかもしれません。
「神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります」。うれしい言葉ではないでしょうか。