信仰者の成長
キリスト者も肉の業への誘惑の中にいます。肉の業から自由になれない現実があります。
肉とは生まれながらの人間の性質で罪とは切り離せない者です。
罪に勝利するために聖霊の助けが必要であり、罪と闘う決心が必要です。そして敵は私たちの内にいるのです。
キリスト者のアイデンティティーに立つことから信仰者の成長の歩みが始まります。簡単な道筋を紹介します。
キリスト者のアイデンティティーを知ることが、キリスト者の歩みの真の出発点。
キリスト者はキリスト者のアイデンティティーを信じると、アイデンティティーが示す人に成長していきます。神の子として成長し、神を愛する人になります。
キリスト者は神の子です。神の子は父なる神を愛します。自分が神の子であると信じたときから、神さまを愛するようになりました。
神を愛するようになった一つのきっかけ。信仰とは神との交わりに生きることと悟ったこと。
信仰に生きるとは、神を愛することです。神を愛するってどういうことでしょうか。神の戒めを守ることが神を愛することらしいです。
キリスト者は律法から解放され、「しなければならない」という考え方から解放されました。神の教えを守らなければならないとは考えません。守りたいと考えるのです。
律法の二つの役割。人を祝福する働き、人に罪を知らせる働きがあります。
キリスト者は神の教えを守らなければならないとは考えず、神を愛し、神の心を大切にするので、これに喜んで従おうとします。
律法あるいは神の掟は、祝福の手段として、信仰者に与えられました。掟を守ることの中に祝福があります。
(クリスチャンの成長(66)キリストに結ばれて- 24) ローマ 7:4~6ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。・・・・しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律…
キリストに結ばれたキリスト者は律法から解放されています。神の戒めを守らなければならないと考える必要はありません。
罪の捕らわれから解放された先にあるのはキリスト者の自由です。
今回考えるのは、人との関わりにおける罪からの解放です。人との関わりにおける罪も、さまざまな罪があります。色々な罪があると思います。そこで今回も私が体験したことを証しとして書くことにします。
罪からの解放という時、それは具体的な罪からの解放を意味すると私は考えます。そして解放は具体的な体験です。
信仰者はキリストにむすばれ、キリストと共に死にました。死んだ人に対して、罪は何の影響力も発揮することはできません。キリスト者は罪から解放されました。
人間は体を持つものとして創造されました。体があることはよい面と悪い面があります。
キリストに結ばれ新しい人になっても、肉の性質が私たちにはあります。この肉の性質のために私たちは罪を犯します。しかしこの肉の働きに、私たちは勝利します。
私と私の心を区別することにより、混乱を避け、聖なる者としての歩みができます。
古い人はキリストと共に死んだのに、まだ生きているように思えるのは、私たちのうちにある肉の性質のためです。
信じたことは、やがて経験できるようになります。キリストに結ばれたキリスト者は、その古い人が死に、新しい人が生きるようになったことを経験するようになります。
罪に勝利して生きることを考えるとき、罪から解放された者として生きることを考えるとき、考えるべき大切なことが二つあります。第一は、古い人と新しい人の理解。第二は、肉の性質です。
私が聖書の「救いのモデル」と考える出エジプトの出来事は、示唆に満ちています。
私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれました。キリストに結ばれたので、キリストに起きたことは私たちにも起きたことになります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
行動において、思いにおいて囚われている状態があるなら、それが好ましくなく解決したいと思いながら自分の力で解決できないのなら、それは罪の奴隷状態にあると言えます。
聖書で罪は擬人化されて描かれています。つまり人間に罪を犯させる力として描かれています。このような悪しき力が存在しているのです。