信仰者の成長
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
行動において、思いにおいて囚われている状態があるなら、それが好ましくなく解決したいと思いながら自分の力で解決できないのなら、それは罪の奴隷状態にあると言えます。
聖書で罪は擬人化されて描かれています。つまり人間に罪を犯させる力として描かれています。このような悪しき力が存在しているのです。
罪の領域と御子の支配する領域のどちらで生きるのか。人はどちらかの領域で生きています。
人はみな罪の下にあります。罪の支配下にあるというのです。聖書の人間観です。
パウロは信仰者は「罪の中に生きることはできない」と語ります。挑戦的な言葉です。
キリストに結ばれた私たちは死にました。どういうことでしょうか。このことを理解することは救いの大いなる恵みへと私たちを導きます。
キリストに結ばれるってどんなことでしょうか。キリストがいつもわたしと共にいてくださるということ?それ以上のことです
イエス・キリストを信じる人はキリストに結ばれています。もしキリストに結ばれていると考えないと私たちは根無し草の信仰者になってしまいます。
キリストを信じる人はクリスチャンと呼ばれます。クリスチャンであるとは、キリストに結ばれた存在であることを意味します。
私が説教で時々語るたとえがあります。蛙(かえる)のたとえです。もし皆さんが天国に行った時、そこにいるのはみんな蛙だったらどうするかという話しです。
私たちの心は、神のみ心に従いたいという心と自分の好きに生きたいという心が戦う戦場です。聖霊は私たちを神のみ心に従うように導き、肉は自分の思い通りに生きるように働きかけます。
聖書が語「肉」は私たちの性質です。この「肉」が私たちに罪を犯させます。罪との戦いは、この肉との戦いです。
肉の人とはどんな人か。キリストを信じていない人は皆、肉の人。罪の支配下におかれている。
悔い改めの実を結ぶことは大切です。自分が犯した罪を犯さないようになること、つまり罪に勝利することは立派な悔い改めの実です。
具体的な罪に勝利し、その罪を犯さなくなるための方法、いくつかのヒントです。
罪から解放されたら知っておきたいこと。 私たちは聖なる者となることを目指していること 私たちは神との交わりに生きること
罪から解放されるために、悔い改めが必要です。私たちは罪深い存在なので、清い心を神様に造っていただくことが必要となります。
罪を犯したことに気づいた時に取る態度は三種類あります。気にしない、後悔する、悔い改める。
第二の罪認識、それは自分自身が罪深い存在であるとの認識です。ダビデは祈りました。「母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」。
罪認識には②種類あるように思います。一つは、具体的に神の御心に反すること銅を行った問う罪認識です。
人が罪の支配下に置かれたのはなぜでしょうか。ある意味謎です。創世記の3章の物語は答えを与えてくれます。
この世界には、私たちに罪を犯させる力が働いています。人はみな、罪の支配の中におかれていると聖書は告げます。
栗須は罪から解放された存在です。罪から解放されたとは、どのような意味でしょうか。
罪から解放されて生きるために、私たちが信じる神さまは、救いの恵みとして解放を与える神であることを信じたいと思います。
私は命であるとイエスは語りました。あたらしいいのちにいきる、それはイエス・キリストととの関わりに生きることです。
クリスチャンは新しい命を与えられ神との交わりに歩みます。この交わりは信仰者の死を越えて続きます。それ故、永遠の命と呼ばれます。
神さまから与えられた命は聖書の言葉、神の言葉に親しむことによって維持されます。栄養失調になり命が萎えたり、死んでしまったりすることもあります。
神さまから与えられた命は、神の言葉によって栄養を与えられ、私たちを生かします。
永遠の命を与えられている、それがクリスチャンのアイデンティティー。命は生きる力、成長する力を持っています。