信仰
神の約束に生きる信仰者の気持ちを思いめぐらします。
人生航路の第一段階を生きる人の特徴は、自分の力で生きることであり、そして様々な問題を抱えての歩みです。
私たちの人生航路には3つの段階があるのではないかと私は考えています。第一の段階は、この世に誕生してから、イエス・キリストに結ばれて生きるまで。
福音は神の力とはどういうことでしょうか。力ですから、何かに働きかけ、その何かに変化をもたらすと考えることができます。
アブラハムは自分が生きている間には実現しない神さまの約束を信じました。老いた私はこのアブラハムが好きです。
神の約束うに生きることに失敗したイスラエルの民は、私たちにとって反面教師です。
クリスチャンは救いの約束をいただいて、神の国を目指して人生を歩みます。
クリスチャンは神の子とされました。神の子として成長し、神の国に迎えられたとき、完全な神の子とされます。
人は、必死に祈ったことがかなえられないとき、心が傷つきます。そして次に必死に祈る時、かなえられなかったら、との不安が心をよぎります。
パウロはキリストを宣べ伝えます。パウロは、異邦人つまりユダヤ人でない人たちを「信仰による従順」へ導くという使命を与えられました。「信仰による従順」とは何でしょうか。
私たちは洗礼を受け、クリスチャンになりますが、パウロは洗礼を通して、私たちはキリストに結ばれると書きます。
神から御子を示されたパウロの思索のあとを辿ります。
私は信仰を持つときには、それが信じるに足る根拠がなければならないと考えました。
私は祈るとき、次のような告白を時々します。「私はあなたが真実な神であると信じます」。これは不思議な告白だと思います。
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
多くの信仰者も自分の人生を振り返れば、神さまの導きを思い出すことができると思います。そこで思います。神さまが私たちを導かれるなら、いつも導かれて歩みたいと。
若い頃、他の信仰者が祈りの中で「ゆだねます」と祈ることに私は違和感を感じていました。そして老いた今。
主イエスは「ただ信じなさい」と、幼い娘が亡くなったとの知らせを聞いたばかりの会堂長のヤイロに語りました。ただ信じなさい。
弱さを起こると聖書にあります。甥から来る衰えを弱さとするなら、これを誇ることができるのでしょうか
どんな迫害にも負けずに伝道したパウロ。真剣に信じて生きる人の姿はほかの信仰者の励ましになることを思います。
信仰生活でやっかいなのが「実感」です。実感がないとなかなか信じられないと問題があります。信じたいけど信じられない、信じられないけど信じたい、と悩みます。
「まだ信じないのか」とイエス様は言われました。信じきれない私たちはどう行動したら良いのでしょうか。
讃美歌の歌詞に感激する友人。平静な自分。この違いって何?
神の戒めを守ろうとした時、心が抵抗することがあります。信仰の成長のチャンスです。
神さまは、気落ちした者を力づけてくださる神さまです。神さまに信頼して祈ります。
パウロは罪の赦しという言葉を使いません。なぜなのか血疑問に思います。彼は先を見ているのです。
老いは試練に直面する時期だと思います。「それにもかかわらず生きる」という知恵があります。
私が使うオリジナルのたとえの第二弾。テレビの修理の話しです。
私が説教で使ったカエルのたとえを紹介します。
イエス・キリストを信じる者は義とされる。よく知られた教えです。イエス・キリストを信じるとはどういうことか、深く考えてみます。