信仰
信仰によって義とされることを語る時、パウロは罪の赦しを語りません。なぜなのか、と思います。
「信仰によって義とされる」とはどういうことなのか、考えたいと思います。
現実の世界の中で信仰をもって生きることは簡単ではありません。色々な場面で罪との戦いがあります。教会に集う一人ひとりの信仰者が、それぞれの場で戦っています。
キリスト者は時に深刻な罪との戦いに直面します。神さまの御心に従いたくないという思いが、私たちの心にあるのです。
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
キリストに結ばれた人は、キリストと共に死にます。罪に対して死に、罪から解放されます。
キリストに結ばれるとどうなるのでしょうか。キリストと共に葬られ、キリストと共に復活する。
キリストに結ばれた非違のことを聖書は、義人、神の子、新しく造られた者と呼んでいます。
聖書が語ることが信じられない時があります。信じるべきだと思いつつも信じられない。そんな時どうしますか?
人生航路の第二段階は、キリストに結ばれたことを自覚して生きる段階です。まずキリストに結ばれていることを信じます。
神の約束に生きる信仰者の気持ちを思いめぐらします。
人生航路の第一段階を生きる人の特徴は、自分の力で生きることであり、そして様々な問題を抱えての歩みです。
私たちの人生航路には3つの段階があるのではないかと私は考えています。第一の段階は、この世に誕生してから、イエス・キリストに結ばれて生きるまで。
福音は神の力とはどういうことでしょうか。力ですから、何かに働きかけ、その何かに変化をもたらすと考えることができます。
アブラハムは自分が生きている間には実現しない神さまの約束を信じました。老いた私はこのアブラハムが好きです。
神の約束うに生きることに失敗したイスラエルの民は、私たちにとって反面教師です。
クリスチャンは救いの約束をいただいて、神の国を目指して人生を歩みます。
クリスチャンは神の子とされました。神の子として成長し、神の国に迎えられたとき、完全な神の子とされます。
人は、必死に祈ったことがかなえられないとき、心が傷つきます。そして次に必死に祈る時、かなえられなかったら、との不安が心をよぎります。
パウロはキリストを宣べ伝えます。パウロは、異邦人つまりユダヤ人でない人たちを「信仰による従順」へ導くという使命を与えられました。「信仰による従順」とは何でしょうか。
私たちは洗礼を受け、クリスチャンになりますが、パウロは洗礼を通して、私たちはキリストに結ばれると書きます。
神から御子を示されたパウロの思索のあとを辿ります。
私は信仰を持つときには、それが信じるに足る根拠がなければならないと考えました。
私は祈るとき、次のような告白を時々します。「私はあなたが真実な神であると信じます」。これは不思議な告白だと思います。
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
多くの信仰者も自分の人生を振り返れば、神さまの導きを思い出すことができると思います。そこで思います。神さまが私たちを導かれるなら、いつも導かれて歩みたいと。
若い頃、他の信仰者が祈りの中で「ゆだねます」と祈ることに私は違和感を感じていました。そして老いた今。
主イエスは「ただ信じなさい」と、幼い娘が亡くなったとの知らせを聞いたばかりの会堂長のヤイロに語りました。ただ信じなさい。
弱さを起こると聖書にあります。甥から来る衰えを弱さとするなら、これを誇ることができるのでしょうか
どんな迫害にも負けずに伝道したパウロ。真剣に信じて生きる人の姿はほかの信仰者の励ましになることを思います。