福音を考える
福音には信じる者を変え、成長させる力があります。この福音を喜びます。私は福音を恥としません。
神は天地を創造されました。そして人間も創造されました。神は何のために人間を創造されたのでしょうか。神は人に何を期待されているのでしょうか。人が愛に生きることです。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
2002年4月私は金沢元町教会へ赴任しました。どんな説教をして、この教会での牧会を始めたら良いのか考えました。赴任した4月「神の子」を主題とする説教を行いました。その結果は?
福音を知るには視点の転換が必要です。自己像を捨て、神が見る私の姿を私とするのです。
牧師を隠退して募ってくる思い。福音が余すところなく宣べ伝えられているのだろうか、との思い。
聖書は死後の救いについても語ります。私たちは神の国に迎えられます。これが本当だと信じることのできる根拠は、イエス・キリストの復活にあると信じます。
私のアイデンティティーは正しい人間。「私は罪深い」は信仰者のアイデンティティーではありません。神さまの助けを得て罪を克服します。
「私は義人にして罪人である」。この言葉も私たちを罪の呪縛の中に導きます。問題なのは、私たちが福音に対して無知であることです。
人を罪意識の呪縛に追い込む者として、宗教改革者ルターの言葉があります。その言葉がひとり歩きをすると罪意識の呪縛をもたらします。
罪意識に悩む人がいます。心が痛みます。福音は喜ばしい知らせなのに。なぜ、と考えざるを得ません。
私たちの生きる拠点は教会です。福音を聞き、信仰者の愛の交わりに生き、この世へ遣わされます。
教会に属して生きる、そこにも神の用意された救いがあります。信仰は生活の拠り所以上のものです。
救われて生きるとは、キリストと同じ姿に造りかえられる歩みをすることであり、この世の旅を通して、造りかえられていきます。
救いとは、目標を目指して生きることができる幸いのことです。神の国を目指してこの世の旅をする私たちの歩みの中に救いがあります。
聖書が語る救い、それは神に導かれる人生を生きること。
救いとは、神が用意された未来に生きること。未来を選ぶこと。
私たちが救いを必要とする理由は何?
聖書に描かれている罪についてのまとめ。行為としての罪、思いとしての罪。
聖書に描かれている罪を見てきましたが、まとめてみます。
預言者イザヤの召命の出来事から罪を教えられます。
パウロの罪。神に対して誰よりも熱心な人が犯す罪。傲慢!
イエスのことを三度知らないと言ったペトロの罪です。
イスラエルの王たちの犯していた罪。罪とは何かを教えられます。
イスラエルのソロモン王の罪。心が神から離れ、そのことが警告されても悔い改めようとしない頑なさ。
イスラエルの指導者もーせがおかしたつみです。モーセも罪を犯しました。
イスラエル初代の王サウルは神の命令を徹底して守らず、罪を犯し、おうのちいをしりぞかせられました。
イスラエルの民が陥った罪、それは偶像礼拝。それは「主を捨てる罪」。クリスチャンに無縁の罪ではありません。
ダビデの犯した罪。高慢の罪。神を侮り、神の言葉を侮る罪。姦淫、殺人の罪。
信頼できる神に信頼しない、それは神を侮ることでした。神を信じるとは、神を信頼すること。罪とは神を信頼しないこと、つまり神を信じないこと。