罪
悔い改めは、同じ罪を繰り返さないという決心だけではなく、神さまの御心に生きることを大切にするという決意でもあります。さらに言えば、自分第一の生き方から神第一の生き方に転換することです。
罪の赦しを考えるときに大切なことは、罪の赦しは最終目的ではないということです。罪の赦しは「神との和解」を目指しています。
信仰によって義とされたことを本気で信じるための出発点は「信じる」とは何を意味しているかを知ることです。キリスト者は事実を大切にしますが、事実に基づいてる生きるのではなく、信仰によって生きます。
主イエスにつながって受け取る最初の恵みは、信仰によって義とされることです。私は、この教えをどれほどのキリスト者が本気で信じているのか、と疑問に思っています。
私はキリストに結ばれた時、その人は真のキリスト者になるのだと考えています。
ローマ 8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
聖書が告げる救いとは滅びからの救いだと書かれています。ロマ書を読んで滅びを語ることをためらってはいけないと思うようになりました。
キリスト者は時に深刻な罪との戦いに直面します。神さまの御心に従いたくないという思いが、私たちの心にあるのです。
人生航路の第一段階を生きる人の特徴は、自分の力で生きることであり、そして様々な問題を抱えての歩みです。
人生航路の第一段階は、生まれて方キリストに結ばれて生きることを恥始める前々までの段階です。
自分が罪深い者であることは忘れず、同時に神が私を神の子としてくださったことを喜び、私は神の子として歩みます。
人はなぜ罪を犯すのか。答えを語るアダムとエバの物語。
聖書によると人間は神に似せて造られ、良い存在でした。同時に罪深い存在です。矛盾しています。
神に似せて造られた人間は、同時に罪深い存在です。この矛盾をどう考えたらよいのでしょうか。
悪い思いが心の中に湧いてくることは罪を犯すことにはなりません。 悪い思いに従って行動するとき、罪を犯すことになります。
パウロはキリストに結ばれて生きる信仰者となり、罪を克服して生きる者とされました。
イエス様の「し死ぬばかりに悲しい」悲しみは、人間の罪を悲しむ神の悲しみ。神の悲しみはやがて神の喜びへ。
主イエスが弟子たちにパンとぶどう酒を与えたのは何のためだったのか。三番目の意義について紹介
主イエスは弟子たちと最後の食事をしました。その中で弟子たちに裂いたパンを与え、杯を与えた主イエス。何のために?
神から御子を啓示され、イエス・キリストが救い主と知ったパウロの心境の変化を追います。
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。罪を犯すクリスチャンは、神の子といってよい?
旧約聖書には、神の掟として人が罪を犯した場合、いけにえを献げて神に赦しを求めることが命じられています。これは何を意味しているのでしょうか。
人は自分の犯した罪に対して自分で償いをすべきだし、身代わりなんておかしいと語る人もいます。でも聖書はなぜ、イエス・キリストが身代わりになったと語るのでしょうか。
人は他者との関わりの中で生きています。キリスト教は他者との関わりを大切にするように教えます。人はだれでも人格を持つものとして尊重されるべきです。
アダムとエバに現れたプライドという罪。プライドこそ、根本的な罪。
創世記によれば、神は人間を造り、善悪の知識の木の実は食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと警告されました。なぜ?
クリスチャンは洗礼を受け生まれ変わり、神さまの教えに従いたいと考えます。時に、反発する思いも抱きます
信仰者には、神さまの教えに従うのは無理だとか、従いたくないとか、頑なな思いがあります。どう対処するか。
罪に打ちのめされることをめぐって。罪とプライドには深い結びつきがあります。