老いを生きる
先週は頭痛に悩みました。ストレスが原因らしく、ストレス発散のために、山里に出かけ、ウォオーキング。
年をとって説教をするときに気をつけなければならないのは、キチンを声を出すことです。喉の筋肉を使わなくなったせいか、普通にしゃべると声が出にくいというか、声がかすれるのです。
説教奉仕をしたG教会での出来事。聖なるものを見たという体験。
人間の生活は習慣から出てきているように思います。よい習慣を作ることはよい人生を生きることにつながります。
日曜午後、双子の孫と一緒の時間を過ごしました。
今朝食後、歯を磨いているときに鏡に映っている自分の顔を見ました。そこには紛れもなく老人の顔が写っていました。
アブラハムは自分が生きている間には実現しない神さまの約束を信じました。老いた私はこのアブラハムが好きです。
誤嚥性肺炎を防ぐために喉の筋肉を鍛える必要を考えていました。発声練習のために音程の高い歌を歌うことが推奨されていました。
牧師を引退して奈良に住み5年が過ぎました。神さまの導きの中を過ごすことができ感謝です。
夫婦二人の生活、一日の終わりに感謝できる日々はとても貴重。
昨日の新聞を見ていたら、本の広告がありました。その本の題名は『いつか死ぬ、それまで生きる』でした。この本のタイトルが、心に響きました。
小坂忠さんの訃報を聞いて心に去来した思いを書きました。
使徒パウロはこの世を去ってキリストと共にいることを熱望しています。パウロの心境に近づきたい。
老いを生きる恵みって何だろうと思いました。
老いの生活は達成を目指すのではなく、日々の生活を感謝をもって終えることに目標をおけばよいと知ります。
弟子たちは皆つまずくと主イエスが語ったとき、弟子たちは「そんなことはしない」と否定しました。
「いつ死んでもいい」と題して3回目の思いを書きました。
老いを生きる者の思い。死と向き合う思い。
賛美は力。老いを生きるとき、賛美を通して希望をたしかにしたいと思います。
私たちは、自分は自由にものを考えていると思っているのではないでしょうか。しかし案外私たちは束縛されていると思います。
あらためて思います。老いを意識して生きることはストレスであり、緊張をもたらします。
若い頃、他の信仰者が祈りの中で「ゆだねます」と祈ることに私は違和感を感じていました。そして老いた今。
讃美歌294番の英語の歌詞に共感を覚えます。 And when my task on earth is done, 地上での私の使命が終わるとき、
主イエスは「ただ信じなさい」と、幼い娘が亡くなったとの知らせを聞いたばかりの会堂長のヤイロに語りました。ただ信じなさい。
弱さを起こると聖書にあります。甥から来る衰えを弱さとするなら、これを誇ることができるのでしょうか
どんな迫害にも負けずに伝道したパウロ。真剣に信じて生きる人の姿はほかの信仰者の励ましになることを思います。
訃報を受け取ると、死が足音を響かせて迫って来るような気がします。そのような時は・・・
生きるのに疲れたという思い、自分は何のために生きているのかという思いで目覚めるのは一種の老人病と考えてよいのではないかと考えました。
今朝は物憂い気持ちで目が覚めました。年をとったからだと思います。このような朝、どう一日を始めたらよいのか。
キリストによって豊かにされた私の6回目は<永遠を思う心>です。永遠を思う心が湧き上がってきたのは、年をとってからです。