老いを生きる
私たちは、自分は自由にものを考えていると思っているのではないでしょうか。しかし案外私たちは束縛されていると思います。
あらためて思います。老いを意識して生きることはストレスであり、緊張をもたらします。
若い頃、他の信仰者が祈りの中で「ゆだねます」と祈ることに私は違和感を感じていました。そして老いた今。
讃美歌294番の英語の歌詞に共感を覚えます。 And when my task on earth is done, 地上での私の使命が終わるとき、
主イエスは「ただ信じなさい」と、幼い娘が亡くなったとの知らせを聞いたばかりの会堂長のヤイロに語りました。ただ信じなさい。
弱さを起こると聖書にあります。甥から来る衰えを弱さとするなら、これを誇ることができるのでしょうか
どんな迫害にも負けずに伝道したパウロ。真剣に信じて生きる人の姿はほかの信仰者の励ましになることを思います。
訃報を受け取ると、死が足音を響かせて迫って来るような気がします。そのような時は・・・
生きるのに疲れたという思い、自分は何のために生きているのかという思いで目覚めるのは一種の老人病と考えてよいのではないかと考えました。
今朝は物憂い気持ちで目が覚めました。年をとったからだと思います。このような朝、どう一日を始めたらよいのか。
キリストによって豊かにされた私の6回目は<永遠を思う心>です。永遠を思う心が湧き上がってきたのは、年をとってからです。
私は毎朝祈るとき、今日も御国への一日の旅路を歩むことができますようにと祈ります。一日の終わりには感謝。しかし・・・
当たり前の毎日を当たり前として受けとめるのではなく、かけがえのない一日と受けとめたいと思うこの頃です。
臨終を前にして床についている自分は、どんな祈りをしてもらいたいのか、そんなことを考えました。
朝起きると、なんか生きるの疲れたな、との思いが湧いてきました。
そこで思うことは、何が起きても、何があっても一日の終わりには神さまをたたえ、感謝できるなら、それが幸いなのではないかと。
秋の日に思うこと。老いを生きる日々とは、何のために生きるのかを確認する日々です。
東京の教会から召天者記念礼拝の案内が届きました。両親のことを思い出しました。
老いを生きる日々の現実と老いを生きる良さについて
生きる意味を見失う老人はどのように信仰に生きる?
ストレッチをして筋肉の衰えをゆるやかにし、健康を保つのも大切なことですね。
老いは試練に直面する時期だと思います。「それにもかかわらず生きる」という知恵があります。
これが起きれば、世を去ってもいいと思えることがあるのでしょうか。
祈祷会では聖書に登場する人物について、参加者が順番に話をしています。今回は、私の番で、パウロについて話しました。
何もできなくなったと語る老いた信仰者が聞く言葉。「祈ることができますよ」。
年老いた私が「わたしについてきなさい」とのイエス様の声を聞きます。どのように生きたらよいのか思いめぐらしました。
歳をとり、テレビで健康番組を見るようになりました。健康に注意することも老いにある者の大切な仕事に思えます。
自分なりにキーワードを念頭に置いて聖書を読むと、気づきが与えられます。今回与えられた気づきは・・・
いつ死んでもいいという心境になれたみたいです。どうしてそうなれた?
讃美歌「こころを高くあげよう」の歌詞が与えるイメージを大切にする、それが私の終活。