クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書黙想

ヨハネ3章16節を思いめぐらす(8/8)御子を世に送る神の愛

独り子を与えてくださった、そこに神の愛があります。二つの恵みがあります。

天の父の子となるために

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。この聖書の教えは、愚かな教えに見えるかもしれません。でも・・・

ヨハネ3章16節を思いめぐらす(7)永遠の命を持つ人の生き方

永遠の命とは、キリスト者を神に結びつけ、神に結びつけられた者としてのキリスト者を生かす命と言うことができると思います。

ヨハネ3章16節を思いめぐらす(6)永遠の命ってなに?

神は独り子を信じる者に永遠の命を与えてくださいます。キリスト者は永遠の命に今生きています。

ヨハネ3章16節を思いめぐらす(5)恵みに満ちた神の愛

神は独り子を世に送り、私たちを救ってくださいました。救いは神の恵みです。神の愛は恵みに満ちた愛と知ります。

ヨハネ3章16節を思いめぐらす(4)人間を見捨てない神の愛

神の愛はどれほど深く、大きいのでしょうか。それは滅びに値する者を見放したり見捨てたりすることなく、救おうとするほどです。

ヨハネ3章16節を思いめぐらす(3)私は滅びる側の人間か?

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 私は滅びる側の人間なのでしょうか。

ヨハネ3章16節を思いめぐらす(2)神に見捨てられる滅び

聖書が語る滅びとは何か。神に見捨てられることと私は考えています。

ヨハネ3章16節を思いめぐらす(1)滅びについて

ヨハネ 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 滅びとは何でしょうか。

迫害する者のために祈りなさい

敵を愛しなさいに続いて、迫害する者のために祈りなさいと主イエスは教えます。迫害する者を敵と見なせば、彼は私を攻撃しているのです。

敵を愛しなさい(続き)

敵を愛しなさい。この命令はキリスト者に向けられています。キリスト者がこの命令に従うのは、天の父の子となるためとあります。

敵を愛しなさい

今週は「敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい」とのイエスの言葉を読み、思いめぐらしています。

神の愛を思いめぐらす(6)

私自身が神の愛を知ったために、自分に何が起きたのか、3つの変化を自覚しています。第一に、心の深いところに平安と喜びがあります。それは神との間に平和を得ているからです。

神の愛を思いめぐらす(5)

聖書は、私たちに対するキリストの愛についても語っています。 「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」

神の愛を思いめぐらす(4)

神の愛はどれほどの愛?それは人間を絶対に見捨てないほどの愛であり、神の子と呼ばれる資格のない者をなお神の子と受け入れてくださるほどの愛。

神の愛を思いめぐらす(3)

人は自分の罪を知るとき、神の愛を知ります。愛されるに値しない自分を愛する神の愛。

神の愛を思いめぐらす(2)

ヨハネ一3:1 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」。 考えてみました。

神の愛を思いめぐらす(1)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。神の愛ってどれほどの愛なのでしょうか。

離縁についての教え

マタイ福音書で離縁についての主イエスの教えを読み思いめぐらしました。長年の結婚生活に対する神さまの支えに感謝しました。

神の聖定

御子の似姿になること、キリストに似た者となることはキリスト者の目標です。

失った神の栄光の回復

失った神の栄光の回復

私につながっていなさい

昨日は教会の祈祷会。ヨハネ福音書15章1~17節を共に読み、しばらく思いめぐらし、各自が心にとまった聖句を紹介し合いました。

気になる聖句

最近、気になっている聖句。 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」。

自分自身を神に献げる

「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げなさい」とのロマ書の言葉の黙想です。

人の子は何もの?

そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。神が自分を顧みてくださることの不思議が告白されています。

殺してはならない

十戒の「殺してはならない」を黙想しました。そして単純ですが祈ることに導かれました。

反省

祈祷会で聖書を共に読み感想を分かち合うとき、失敗しました。説教者目線で聖書を読んだために感想が湧いてきません。

信仰生活の出発点(3)私は罪を犯したくない

実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。

信仰生活の出発点(2)キリストと共に葬られ

洗礼を受け、キリストに結ばれるとはキリストと共に死に、新しい命に生きることです。

信仰と理性

今日思いめぐらした聖書箇所は、ロマ書の6章11節です。ここには興味深い表現があります。「~と考えなさい」という表現です。パウロは「信じなさい」とは言わないのです。