クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書黙想

神の聖定

御子の似姿になること、キリストに似た者となることはキリスト者の目標です。

失った神の栄光の回復

失った神の栄光の回復

私につながっていなさい

昨日は教会の祈祷会。ヨハネ福音書15章1~17節を共に読み、しばらく思いめぐらし、各自が心にとまった聖句を紹介し合いました。

気になる聖句

最近、気になっている聖句。 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」。

自分自身を神に献げる

「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げなさい」とのロマ書の言葉の黙想です。

人の子は何もの?

そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。神が自分を顧みてくださることの不思議が告白されています。

殺してはならない

十戒の「殺してはならない」を黙想しました。そして単純ですが祈ることに導かれました。

反省

祈祷会で聖書を共に読み感想を分かち合うとき、失敗しました。説教者目線で聖書を読んだために感想が湧いてきません。

信仰生活の出発点(3)私は罪を犯したくない

実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。

信仰生活の出発点(2)キリストと共に葬られ

洗礼を受け、キリストに結ばれるとはキリストと共に死に、新しい命に生きることです。

信仰と理性

今日思いめぐらした聖書箇所は、ロマ書の6章11節です。ここには興味深い表現があります。「~と考えなさい」という表現です。パウロは「信じなさい」とは言わないのです。

あなたがたは世の光である(4/4)

キリスト者が御言葉によって生きるなら、世の人の歩みとの違いがはっきりすることになります。

あなたがたは世の光である(3)

キリスト者としてその名にふさわしく生きる、それが世の光なのだと教えられます。

あなたがたは世の光である(2)

私たちが生きている世界は闇で、私たちは闇の中に生きていると言ったら、多くの人から笑われると思います。世界が闇でなければ、救い主イエス・キリストは必要なことになります。どうなのでしょうか

あなたがたは世の光である(1)

今日は、5章14節「あなたがたは世の光である」を思いめぐらしました。

あなたがたは地の塩です(続き)

塩は存在するだけで何かに働きかけるために行動するということがありません。キリスト者の存在が周囲に影響を与えていくわけです。

あなたがたは地の塩です

あらためて思います。学ぶことができるということはうれしい、と。聖書は内容が深く、自分の力では深みに到達できないことがあります。そんな時に学ぶことができるのは、本当にうれしいです。

箴言12章から

先日の夜の祈祷会では、箴言12章を読んで、印象に残った聖句を分かち合いました。私は皆さんが話すのを聞くことを優先して、自分が話すのは控えました。 で、私が印象に残った箇所を紹介します。聖書は、聖書協会共同訳です。 11節自分の土地を耕す人はパン…

憐れみ深い人々

今日は7節、「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」を思いめぐらしました。これはキリスト者に対する教えです。

キリストに結ばれて(2)自己理解の変化

キリストを信じて大きく変化したのは自己理解です。キリストに結ばれ、神の子として生きる自分となりました。

キリストに結ばれて(1)御言葉

キリストに結ばれて自分はどのように変わったのか、振り返ります。

わたしが示す地に行きなさい

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」。 キリスト者の私に神が示される地とは?

心の貧しい人

心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。この聖句を思いめぐらしました。

わたしについて来なさい

主イエスは漁師たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りました。「私について来なさい」との呼びかけが私にも向けられています。

イエスの系図を読んで

マタイ福音書の冒頭にあるアブラハムからイエスに至る系図を読み、思い巡らしました。

詩編4編の言葉

人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。 それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください。

詩編139編を読んで

今週は詩篇139編を黙想しています。この詩篇には印象に残る言葉があり、親しみを覚えています。きちんと読んで黙想するのは今回が初めてです。

老人キリスト者の特権

今週は詩編90編を読んでいます。以前から黙想したいと思っていた詩編です。

十字架の主の叫び

十字架の上でのイエスの叫び,「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を黙想しました。

主イエスの悲しみとは

主イエスはゲッセマネの園で、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られました。主は何を悲しまれたのでしょうか。