自由・解放
福音は信じる者に自由、解放をもたらすものだと思います。新約聖書に出てくる重要な解放は三つあります。罪からの解放、律法からの解放、死の恐怖からの解放。
キリスト者は時に深刻な罪との戦いに直面します。神さまの御心に従いたくないという思いが、私たちの心にあるのです。
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
キリストに結ばれた人は、キリストと共に死にます。罪に対して死に、罪から解放されます。
大事なのは、悪い思いに支配されて行動しないことです。どうしたらいいのでしょうか。
「わたしバカよね、おバカさんよね」。細川たかしさんが歌った曲の出だしです。「自分ってバカなんだよね」。これは心を解放する言葉です。
私たちは、自分は自由にものを考えていると思っているのではないでしょうか。しかし案外私たちは束縛されていると思います。
神の戒めを守ろうとした時、心が抵抗することがあります。信仰の成長のチャンスです。
私は多くのクリスチャンが神さまの教えを守らなくてはならないと語るのを聞いてきました。どうして「守らなくてはならない」と考えるのでしょうか
キリストの十字架を私が誇る理由。それは私がキリストとひとつにされて歩むことができるようになったからです。
聖書は人は罪と死に支配されていると語りますが、人は自分が自由であると考えています。
キリストの復活がなかったら、あなたがたは今なお罪の中にあるとパウロは語りました。キリスト者は復活を信じ、罪の支配から解放されました。
十字架の上でひとびとからののしられ、あざけられ、侮辱されたいえす。みじめなすがたをさらすのはなぜ?
肉の思いに勝利し、罪に打ち勝つために必要な二つのもの。信仰の決断と、御言葉を喜ぶこと。
キリスト者が直面知る二つの現実があります。文字通りのリアルな現実。今ひとつは霊的現実。霊的な現実を信じるところから信仰生活が始まります。
罪へと私たちを誘う勢力を認めると、罪との戦いが生じますが、勝利が約束されています。
「しなければいけない」世界、律法の下にある信仰者の歩みから自由になった話しです。
キリスト者は神の教えを守らなければならないとは考えず、神を愛し、神の心を大切にするので、これに喜んで従おうとします。
キリストに結ばれたキリスト者は律法から解放されています。神の戒めを守らなければならないと考える必要はありません。
罪の捕らわれから解放された先にあるのはキリスト者の自由です。
今回考えるのは、人との関わりにおける罪からの解放です。人との関わりにおける罪も、さまざまな罪があります。色々な罪があると思います。そこで今回も私が体験したことを証しとして書くことにします。
罪からの解放という時、それは具体的な罪からの解放を意味すると私は考えます。そして解放は具体的な体験です。
信仰者はキリストにむすばれ、キリストと共に死にました。死んだ人に対して、罪は何の影響力も発揮することはできません。キリスト者は罪から解放されました。
私が聖書の「救いのモデル」と考える出エジプトの出来事は、示唆に満ちています。
私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれました。キリストに結ばれたので、キリストに起きたことは私たちにも起きたことになります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
栗須は罪から解放された存在です。罪から解放されたとは、どのような意味でしょうか。
罪から解放されて生きるために、私たちが信じる神さまは、救いの恵みとして解放を与える神であることを信じたいと思います。
あなたがたは地の塩である。世の光である。これはクリスチャンのアイデンティティーです。
これぞ福音。 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 (コロサイ1:13~14)