今日は、5章14節「あなたがたは世の光である」を思いめぐらしました。
年を重ね、ああ、これをするのはこれが最後だと思うことがあります。そんな最後のこと。
塩は存在するだけで何かに働きかけるために行動するということがありません。キリスト者の存在が周囲に影響を与えていくわけです。
あらためて思います。学ぶことができるということはうれしい、と。聖書は内容が深く、自分の力では深みに到達できないことがあります。そんな時に学ぶことができるのは、本当にうれしいです。
新たな習慣を身につけながら生きる老いの日々。
自分が死の床にある時、思いめぐらしたい聖書箇所が色々あります。その一つはマタイ福音書25章31節以下です。
聖書には、自分が死ぬことを楽しみにしている人が登場します。私も見倣いたいです。
信仰に生きるとは、「命の神に、わたしの魂は渇く」ことに共感することではないかと思います。御国に迎えられるとこの渇きが癒やされます。
信仰者として神の国のイメージを思い描いて、いつの日か神の国に迎えられるのを待ち望みたいと私は考えています。
人は自分が生きている時代のことをどう思うのでしょうか。私は自分はよい時代に生まれ、生きていると思うことがあります。
キリストに似た者となることを目指すことはキリスト者の課題です。なぜならイエスは真の人であるからです。
キリスト者は、地上の生涯を終えて神の国に迎えられます。神の国に迎えられるのにふさわしい人はどのような人なのでしょうか。
創世記によれば人間は、神にかたどって、神の似姿に造られたとあります。この似姿の回復も、救いです。
いつの頃かはっきりしませんが、信仰とは神との交わりに生きることであるという確信が私の心の中に芽生え、根付きました。・・・
神との交わりの回復。これも聖書が告げる救いです。
伴侶を失って始まる生活は老いの試練と考えます。だれもが直面します。
日曜日の朝、訃報が届きました。訃報が届くたびに自分はどのような希望をもって生涯を閉じるのかと考えます。
先日の夜の祈祷会では、箴言12章を読んで、印象に残った聖句を分かち合いました。私は皆さんが話すのを聞くことを優先して、自分が話すのは控えました。 で、私が印象に残った箇所を紹介します。聖書は、聖書協会共同訳です。 11節自分の土地を耕す人はパン…
罪からの救いを考えるときに、私たちの心の汚れも問題となります。私たちの心は罪へと傾いています。
アダムとエバ物語は、罪を犯すように人間に働きかける存在、力がこの世にあることを示しています。
聖書はイエス・キリストは私たちの罪のあがないのためのいけにえとしてご自身を献げられたと語ります。
イエス・キリストは私たちの救い主です。では、私たちは何から救われるのでしょうか。私は次のように考えます。・・・
聖書が伝える救いは、まず罪からの救いです。創世記6章からノアの洪水の物語が始まります。
気づいてみればもう76歳。 でも不思議、毎日聖書を読まずにはおれない。・・・
赦しについて私の考えを紹介します。私に対して罪を犯した人が謝罪したら、私は赦します。・・・
今日は7節、「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」を思いめぐらしました。これはキリスト者に対する教えです。
昨日、無牧の教会の礼拝説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。 聖書 創世記3章1~13節 ローマ 1:16~17 説教 福音は神の力
この世の大きな悲劇は、人間は全力を傾けて幸福を求めながらも、それを見出せそうもないということである
75歳を過ぎて衰えが進んだように思います。筋肉の衰えによる痛みを感じるようになりました。
他者を裁く私が死んで、他者のために執り成す新しい自分が生まれました。