今日は奈良高畑教会で行われた葬儀に出席しました。大きな気づきを与えられました。
キリスト者は信仰を得たときから永遠の命を与えられています。そして肉体の死後も、永遠の命を持っています。永遠の命とは何なのでしょうか。
永遠の命とは、死んだ後の命であると考える人もいると思います。しかし聖書はキリスト者は永遠の命を得ていると教えています。
今週は詩編90編を読んでいます。以前から黙想したいと思っていた詩編です。
今日教会で葬儀が行われました。伴侶を喪った教会員へのフォローをどうしたらいいのか、それが問いとして心に残っています。
主イエスは天国を語るとき、タラントンのたとえを話されました。最後の裁きと結びつけて考えます。
十字架の上でのイエスの叫び,「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を黙想しました。
未信者の家族の救いはどうなるのでしょうか。救われるのか、救われないのか。
最近の祈りです。
1月22日(日)大阪にあるH教会で説教奉仕してきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 旧約聖書 出エジプト記 3章7~10節 新約聖書 ローマ 6:1~20 説教 罪からの解放 ~~~~~~~~~~~~~~~
人は信仰によって救われるのか、それとも行いによって救われるのか。そのような問いを立てることができます。
最後の審判を思うとき、すぐに心に浮かぶのは「こころを高くあげよう」(讃美歌第二篇1番)という讃美歌にある歌詞です。
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。再臨のキリストは栄光のキリストです。
日曜日の夕食直前、わが家では「やったー!」との叫び声が聞こえました。大相撲・貴景勝の優勝が決まった瞬間です。
聖書は、私たちが神の国に迎えられるとき、主イエスに似た者となることを語っています。
私が終末を信じる根拠の一つは最後の審判です。 主イエスの語った教えがあります。マタイ25章
終末の到来について信じる理由、根拠を見出したいというのが人間の心情です。私自身が信じる理由として考えていることを紹介します。
先日讃美歌392番を歌ったとき心が震えました。 神のみ声は 昔のごと 今なお人を 召したもう 囚われし民 悩む者を 救う使いの 世にはなきか
人生行路の第三段階は、終わりを見て生きる、ということです。ここでは、世界の終末と私たちの生きかたを考えます。。
今日、友人から送ってもらったモーツァルトのピアノソナタのCDで音楽を聴いていました。集中して聞いて、聞き終わったとき、心が洗われたような、澄み切った心になっているのに気づきました。
元旦礼拝で、「新しい年を迎えて」という讃美歌を歌いました。ふと思い、youtube でこの曲を聞きたいと思いました。すると。
私は十字架のくしき光の中に自由を見ます。十字架の死を遂げた方こそ、私の主であり、この方は私を自由にしてくださいました。
今日午前中、私が礼拝出席している奈良高畑で洗礼式・聖餐式が行われました。私も出席しました。
自分は怠慢の奴隷なのだと思いました。した方がよいと分かっていてそれができないのは、何かの奴隷だと私は考えています。
十字架のくしきひかりを仰ぐとは、十字架の恵みを確認することと言い換えてよいと思います。この確認をしたいと思いました。今回は2回目。
十字架のくしきひかりを見るとはどういうこと?
この世で何が起きようと神さまを讃えて生きていきたい、それが年初の志です。
「信仰」によって各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動を意味するなら、いわゆる「宗教」がつねにこの道程に沿うものとは言いがたい。
年末になると思うことがあります。終わりがあること。自分の人生に、そしてこの世界に。
最近、感謝して生活を楽しむことも御心に適うことではないかと考えるようになりました。