先日の日曜日礼拝後、奈良高畑教会では「社会生活を考える公開講座」が開かれました。テーマは『戦争の時代にキリスト者として生きる』。
神学校の同窓会から訃報のメールが届きます。訃報が届く中で人の死に慣れていき、自分の死を受け入れる心境になります。
ルカ福音書が伝えるイエスの受難予告について、その意味はは弟子たちに理解できないように隠されていたとあります。
主イエスは受難の予告を弟子たちにしました。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるというのです。
自分はみじめだと告白するのは誰なのかという追求は、底なし沼に踏み込むようなものだと思います。沼から出ることができなくなり、さらにはキリストによる救いが何であるかが見えなくなるように思います。
理解するのがむずかしい聖書の箇所があります。そういう箇所は注解書を見ても説明がなかったりして疑問が解決しません。だからむずかしい箇所が分かるということはとてもうれしいです。
キリストの父なる神への愛と神への忠実、キリストの人間への愛の先にキリストの苦難があります
キリストは御子でありつつ、人となり、十字架の死に至るまで、神に従順に歩まれました。キリストの苦悩を思う受難節です。
私は今、死を越える希望を語る聖句の一覧表を作っています。これらの聖句を味わいたいからです。
老いの重荷は主イエスに預けて、マストとウォントの間を生きて充実感を得たいです。
洗礼を受けキリストに結ばれた者は、「神の子なのです」とあります。そこでまず、自分が神の子とされたと考え(信じ)喜びます。
使徒パウロはロマ書6章で次のように語っています。パウロが語る洗礼、それが聖霊のバプテスマだと私は理解します。
信仰を考える時、信仰的事実と経験的事実との違いを知ることが大切です。信仰的事実は霊的事実と言うこともできます。
普段考えている事柄とは違ったテーマですが、ロマ書の学びをしている中で、そうなのか、と教えられたような気がしました。
最近よく賛美するのが、讃美歌224番です。人命が戦争で奪われていく現実を覚えながら、歌っています。
礼拝説教です。 創世記 2章15~17節 ローマ 5章12~21節 説教 神の支配に生きる
置かれた場所で限られた人生の中で神に信頼し従順に歩みを全うする、それがキリスト者の生涯といえるのではないでしょうか。
人は何のために生きるのか、多くの人は考えます。神が何のために人を創造したのかを知れば、自ずと生きる意味が分かります。
私たちは限りある人生を歩みます。人間にとってそれは最善なのだと考えます。
信仰者としての自分は、死をどう受けとめるか、課題となります。キリスト者の希望は何か、です。あるいは限りある人生をどう受けとめるかです。
キリスト者が神をたたえること、賛美することは大切なことと教えられます。でもどのように神をたたえたらよいのか。
罪によって私は死んだ、罪は私を欺き、私を殺したとあります。どういうこと?
「最上のわざ」という詩にびっくりする言葉がありました。「老いの重荷は神の賜物」。賜物になってほしいと思いました。
老いは一つの弱さです。老いに対応することが阿むずかしい面があります。しかし弱さを誇る人がいます。。
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
ネガティブ・ケイパビリティに触発されての祈り
1月3日の朝日新聞に「答えを急がない力」と題して二人の方のインタビュー記事が掲載されていました。ネガティブ・ケイパビリティ。
讃美歌「新しい年を迎えて」が聞こえてきて、歌詞が心の中には言ってきました。「・・生き方を 今年はしよう」。
新年最初の祈祷会で、新年の抱負を分かち合いました。年をとると特ぬ抱負もありません。
「恵みの高き嶺」。聖歌にある曲です。恐れや疑いから解放された信仰の境地としての恵みの高き嶺。憧れます。