クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.4.22)
コリント一 4:6〜13 高ぶらない

 パウロはコリント教会に争いがあると聞いて、この手紙を書いています。パウロはコリント教会の内部争いの解決のために忠告をしていますが、この忠告は、夫婦、親子、その他の争い、対立に悩む人にも役に立つと思います。

4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。

4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。

4:8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。

4:9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。

4:10 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。

4:11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、

4:12 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、

4:13 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。


パウロ

「心を一つに、思いを一つにし、固く結び合いなさい」

と命じました。その争いとは、「私はアポロに」「私はパウロに」「私はケファに」と誰を指導者とするかで、教会が分かれ争っていたのです。

 今日の聖書はそのことを具体的に指摘しています。

「一人を持ち上げて、他の一人をないがしろにして、高ぶっている」(6節)。

神によって立てられ、神から派遣されている指導者について、あれこれ判断し、彼はすぐれた指導者だとか、彼は劣った指導者とか判断するのは高慢の罪だと指摘します。そういう判断をし、高慢の罪を犯す原因は、自分は正しく考えることができる、自分には知恵があるなど、自分を誇る思いがあるからです。

 そこでパウロは、

「あなたを他の者たちよりも優れた者としたのは誰ですか」(7節)

と聞きます。人は無意識のうちに、自分を他の人より上に置き、他人をあれこれ評価します。さらにパウロは、

「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」

と問いかけます。あなたは自分の中に誇るものを持っているかもしれないが、それは神からいただいたものではないですか、と問うのです。

 神からいただいたもの、自分のものではないものを自分のものであるかのように考えて自分を誇るのは高慢ではないですか。そう語るわけです。人が優越感に浸ったり、劣等感に陥ったりするのは、ここに原因があります。個人的な資質、能力などは、親から遺伝で受け継いだものもあり、これは神の賜物です。

 さらにパウロは、「あなたは大金持ちになっている、王様になっている」と言います。これは皮肉です。これが具体的にどういうことなのか、わかりませんが、ヨハネ黙示録のラオディキア教会の問題が似ていると思います。こう書かれています。

「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(ヨハネ黙示録3:17)。

そしてパウロは、自分の境遇とコリント教会の人とを比較します。コリントの人々は、金持ちで王様になっているが、わたしたちは見せ物にされている、と。円形劇場で、催し物がなされて人々は楽しむのですが、催し物の最後に、死刑囚が引き出され、獣と戦うのを見せ物にすることが行われていました。死刑囚にとって、それは屈辱的なことです。

続けて

「あなたたちは賢く、強く、尊敬を受けている、しかし自分は、愚かで、弱く、侮辱されている」

と言います。さらに自分たちは、侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返している、と。これはイエスの生き様を思い起こさせます。

「わたしたちはキリストのために愚か者になっている」(10節)

と述べるパウロにとっては、生きる目的はキリストです。キリストのために生きる時、その歩む道は、時に苦しく険しいのです。しかし

「キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」(フィリピ1:29)。

大金持ちのような、王様のような態度でいるのは、クリスチャンらしくない! 自分はクリスチャンとしてうまくやっていると考えるのは思い上がりだ、と批判しているのです。さらにパウロは、

「私たちは世の屑、すべてのものの滓(かす)」(13節)

とされていると述べます。ここには、パウロの信仰がはっきりと示されています。キリストを知ることの絶大な価値の故に、自分の誇れる事柄をすべてくず、かすと見なすとパウロは述べます。

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています(フィリピ3:8)。

コリントの教会の人々は、自分の信仰の貧しさを思うように導くのです。

私たちへの適用を考えます。

 わたしたちは、つい自分を誇り優越感に浸り、あるいは逆に劣等感に陥ります。自分の中に何か誇れるものがあると考えるから優越感となり、それがないとなると劣等感になります。わたしたちにとって誇れるものは、神からの賜物であり、優越感の代わりに感謝が大切です。また私たち信仰者は神の子として神から愛されています。

「私の目にあなたは価高く、貴い」

と神は呼びかけてくださいます。劣等感を捨て、神から与えられている自分の良さを思い、感謝することが大切です。

 あなたの生活の中に争い、対立はありませんか。自分の方が正しい、その思いを変えることができず、争いをやめることができないでいませんか。クリスチャンの生きる目的はキリストです。争いをやめて一つになる、それがキリスト者の生きる目的です。夫婦であれば一体となるのです。

 キリスト者の生き方には、恥を受け、辱めを受けることもあるのです。さらに侮辱されても相手を祝福する、迫害されたら忍耐する、ののしられたら優しい言葉を返すのがキリストの歩みでした。キリストにならう歩みこそ、信仰者の歩みです。あなたがキリストの歩みにならうとしたら、今、具体的にどうしたらよいと思いますか。