本日のメッセージ(2007.4.29)
コリント一 4:14〜21 私に倣う者になりなさい
コリント教会に争い、対立があると聞き、パウロはこの手紙で忠告を書いてきました。そして今日の箇所が忠告の最後の部分です。
まずパウロは、これまで書いてきたのは
「あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」(14節)
と語ります。忠告したり叱ったりしたのは、愛する子供として諭すためだったと語っています。
人から叱られたり、忠告されたりするのは良い気持ちがしないことがよくあります。パウロは、恥をかかせるためではない、とはっきり伝えています。そしてコリント教会の人々のことを
「あなたがたは、愛する子なのだ」
と告げます。パウロが伝道し、その結果信仰者になったのです。コリント教会の人々は、信仰上のパウロの子なのですね。
親は子供を愛します。子の成長のためには、叱ったり懲らしめたりします。時に八つ当たりで子供を叱ったりします。子を叱る時には「あなたを愛している」と一言添えて叱るべきことを教えられます。さらにまた牧師に対する問いかけもあります。
「あなたは教会員を愛しているのか?」
パウロは、エフェソ教会の長老たちを二度と会えない別れの時に
「わたしがあなた方一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして目を覚ましていなさい」(使徒20:31)
と述べました。
パウロは、涙を流して教えてきました。それは、教会員を愛しているからです。私は教会員の皆さんが、牧師が教会員を愛する牧師となるように祈って欲しいです。愛する子たちの成長を願う使徒パウロの心。模範です。
「私に倣いなさい」(16節)。
これが教会内部の争い、対立に対する結論に思えます。パウロは、キリストを主と崇め、キリストに従順に生きています。これさえ実行するなら、教会に一致は生まれる、そうパウロは確信しています。
パウロはテモテをコリント教会に遣わしました(17節)。テモテは主に忠実な人です。彼はキリスト・イエスに結ばれたパウロの生き方を思い起こさせました。具体的なことはわかりません。直接キリストを信じる者の生き方を教えたかも知れないし、テモテ自身が模範を示したかもしれません。あるいは、パウロに教えられたように、私はこのようにしていると、模範を示しながら、信仰者の生き方を教えたのかもしれません。パウロは、コリント教会の人々にパウロの生き方を思い起こさせた上で、「私に倣いなさい」と勧めています。
見倣う、まねをする、これは成長のためには必要で大切なことです。子供のしつけでも、こうしなさいと見本を示します。画家は優れた絵を模倣し、小説家も優れた文章をそのまま書き写すと言います。そうやって身につけるものがあるのです。
教会では「教える」ことは大切な働きです。有効に教えるためには、模範を示し、それに習うように訓練することが大切です。パウロがそうしたように、牧師は教会員に模範を示すことが必要ですし、CS教師は、生徒に模範を示すことが必要です。口でただ教えているだけでは、成長を期待することは難しいのです。見倣うように教えることを私たちは忘れてしまったような気がします。
先日の祈祷会で、ある方が
「我らは力に満ちて立ち上がる」(詩篇20)
の言葉を実感していると話され、自分の祈りについて話してくださいました。私はまねをしなければならないと思い、まねを始めました。
聖書の教えにどのように生きるのか、と問われたら、具体的に他の人を模範にしていけばよいのです。私たちが互いに見ならうならば、お互いを敬うことができるようになります。もし見ならうべき模範となる人が一人もいないとしたら、その教会のことを何と言ったらよいのでしょう。互いに見倣おうとする人が一人もいないとしたら、その教会のことを何と言ったらよいのでしょう。
主イエスご自身、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)と語っておられます。イエス様に倣うのが一番ですが、身近な人に倣う方が簡単です。互いを模範とし、教会全体で成長しましょう。あなたは誰のどんなことを模範にしたいですか。考えて実行しましょう。
感謝して真似をし、真似をされることに光栄を覚えましょう。互いに真似し、成長する教会に属することを喜びとし、誇りにしましょう。