クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 この間書いたことの続き。僕は物心ついたとき、不安と恐れがあった。恐れとは死の恐怖。不安とは、自分の存在の小ささに対する不安。夜空を見上げると、宇宙は無限の広がりに気づく。無限の広がりを思った時、自分の存在の小ささに不安を覚えた。この恐れと不安を抱きながら僕は育っていった。「大丈夫だよ」と励まし支えてくれる声を聞きたかったが、聞けなかった。かわいそうな僕と、自己憐憫に陥りそうになる。
 そのおかげで、神を信じても創造主である神を賛美する気持ちにはなれなかった。今でもその気持ちは払拭されたとはいえない。だからこの文章を書いている。何とか抜け出たいと思っている。自分の気持ちに向かい合って気がついたことは、気がついてみれば何てことはないのだが、この不安と恐れがあったから神を求めたということ。なければ神を求めなかったかもしれない。その意味で、今まで否定的に考えてきたことが、評価できることに思えてきた。人生は選択。どう思うか、それも選択である。でも心は傾いていて、いつも自由に選択できるわけではなく、大抵は否定的な方向に行ってしまう。
 息子から

「神様を裁いていない? 恨んでいない? 」

と言われたこともある。僕が不安と恐れを感じたことについて神に責任はない。でも神に恨みたくもなる。
 カインは供え物を受け入れてもらえず、供え物を受け入れられた弟のアベルに怒りを向けた。ヨブはいわれのない苦しみを受けて、なぜ自分は苦しむのか、と神に抗議した。納得のいかない事態に人は神を恨んだり、抗議したりしたくなる。場合によっては人を恨む。納得したいのにできない。この悩みから抜け出ることは簡単ではない。
 それは神を求めるためにあった。気がついてみれば、なあんだということなのだが、目から鱗が落ちたような気がする。創造主を賛美できない、と抵抗する気持ちが消える。うれしく思う。