本日のメッセージ(2007.5.6)
コリント一 5:1〜8 パン種の入っていない者
私たちは、教会を様々な悪からいかにして守ることができるのでしょうか。牧師が、教会員の女性や子供に性的暴行を働いたことが以前報道されました。教会員が社会的に問題となる行動をして報道されることがあります。以前、近隣の教会の信徒が銀行に強盗を働いて逮捕されたのをテレビのニュースを見て驚いたことがあります。
教会にスキャンダルが起きれば、神の名を汚します。教会はいかにして、罪や悪から守られるのでしょうか。教会の自浄能力が問われます。
5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。
5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、
5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。
5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
コリントの教会には、みだらな行いをしている人がいるとパウロは聞きました。「みだらな行為」とは不適切な性的関係のことです。父の妻を我がものにしているというのです。これは異邦人の間でも滅多にない罪です。聖書には
「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」(レビ18:8)
とその罪を明確にしています。
パウロは言います。
「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」(2節)。
教会がこの問題を放置していることに対して
「あなたがたは高ぶっている」
と批判します。
自分たちは信仰的にすぐれた状態にあると自認しながら、このような悪を見逃しているという意味なのか、それともキリストにある自由を得ているので、これくらいのことは問題ではないという意味なのか、はっきりしませんが、いずれにしろ高慢になっているのです。
パウロは、
「わたしは、そんなことをした者をすでに裁いてしまっています」(3節)
と告げます。パウロの気持ちが表現されています。パウロの気持ちとしては、パウロがコリントの教会に行き、そこで教会の会議を開いて、みだらな行いをした人を除名するという措置をとる、という思いだというのです。教会から除名されるとは神の守りから離されること、つまりサタンの支配下に置かれることです。
「サタンに引き渡す」(5節)
ことなのです。もともとこの世はサタンの支配下にあり、私たちは信仰を得て、神の恵みの下、神の御支配のもとに移されるのです(使徒26:18,コロサイ1:18)。
パウロは、除名という措置はその人の救いにつながるといって除名を行います(5節)。なぜ除名するのでしょうか。
「わずかなパン種が練り粉全体をふくらませる」(6節)
と理由を述べます。教会はキリストの体であり(6:15)、一部の者の犯す罪を放置すれば、教会全体が汚れていくのです。そして教会は聖なるものなのです(3:17)。罪、汚れは除かれなければならないのです。
「あなたがたはパン種の入っていない者」(7節)
です。だから、新しい練り粉のままでいられるように古いパン種を捨てるのです。ここでいきなり、キリストが過越の小羊だから、教会が「パン種の入っていない者」と言われます。パウロはいつも問題の解決にキリストを持ち出します。
昔、イスラエルの人がエジプトで奴隷状態でした。解放される時、彼らは小羊を屠り、夜それを焼いて食べ、その時、パン種を入れないパンを食べました。パウロはそのことを思い起こしています。
練り粉にパン種を入れると練り粉はふくらみます。古いパン種、悪意と邪悪のパン種は取り除かねばならないのです。教会全体が罪に汚れないように、古いパン種、罪は取り除かねば、教会は聖なるものでなくなるのです。だからみだらな行いをした者を除名するというのです。
教会を様々な悪から守るにはどうしたらよいのでしょうか。教会の中で罪が発覚したとき、教会が行うべきことがあります。罪を犯した人に1対1で注意し、悔い改めを勧めます。それでも悔い改めないなら二人または三人で注意し、悔い改めを勧めます。それでも駄目なら、このことを教会全体に知らせ、悔い改めを求めます、それでも改めないなら、教会から除名します(マタイ18:15〜17)。
これが、教会が自分の中に起きた悪に対して行う処置です。罪を犯した者に悔い改めを勧めることを
「戒規」
といいます。教会は時に、教会員に対して戒規を与えることがあります。
大事なことは、罪の行為が発生するのを防ぐことです。わずかなパン種が練り粉をふくらませるのですから、わずかなパン種を早急に取り除くことです。どうしたら防ぐことができるのでしょうか。
それは、
教会が「分かち合い」に生きることです。
一人で問題に悩むとき、苦しくなり、解決ができず、人はとんでもないことをするのです。経済的な問題、夫婦間の問題、親子の問題など、自分の問題を人に相談することができず、一人で苦しむとき、問題から逃れようとして、罪を犯してしまうのです。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(コリント一12:26)。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)。
これが教会です。教会に属する者たちが、一体感がなく、バラバラで、お互いに相手のことを知らないでいれば、教会は罪に無防備になってしまうのです。
今年の主題聖句に、教会は神の建物とあります。土台はイエス・キリストです。建物を支えるしっかりした柱、それは「分かち合い」と考えることができます。分かち合いがお互いを支えるのです。ここに教会に属する幸い、喜び、感謝があります。
今年は、礼拝後の恵みの分かち合いに出席して、苦しみも喜びも、説教を聞いて感じたこと、考えたことも是非、分かち合いましょう。地域集会でも積極的に分かち合いをいたしましょう。分かち合いは、良いパン種となり、良い結果が教会全体に広がります。