クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 車を運転しながら外を見ると雑草が沢山目にはいる。雑草という草は実は存在しない。皆、一つ一つ名を持つ草だ。私たちは園芸の花のように見栄えのする花については、その名を呼ぶが、雑草は、雑草と呼んでしまう。そこには、価値観が働いている。美しくて目を楽しませてくれる植物は名を呼ぶが、どうでもいいものは雑草とひとくくりで呼んでしまう。雑草がなかったら、味気ない光景が身の回りの生じるのではないか。雑草だって光合成を行い、酸素を作る大切な働きを担っている。存在価値はある。雑草と呼ぶとき、そこには、そう呼ばれる草には存在価値はない、と無意識に考えている。

 価値があるかどうかで物を見る習慣は根深い。私たちは自分自身をもそういう目で見る。自分を低く評価したり、自信が持てず、自分を受け入れることができなくなる。

 神は人間をどう見るのだろうか。一人一人を愛してくださる。「雑草」と呼ぶように、人間をひとくくりにすることはない。神は人間を「雑草」とは呼ばない。いてもいなくてもどっちでも良い存在とは見ない。