クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.6.3)
コリント一6:12〜20 神の栄光を現す私の「体」

 今日の聖書は、自分の体をすばらしいものと誇りなさいと語っています。体は、神の栄光を現すほどにすばらしいと。

「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」(18節)。

みだらな行い、それは自分の体に対して、してはならないことをすることだ、自分の体は尊ばれるものだとパウロは語っています。

 体は魂の家です。体は私という人間の住む住まいです。死んでしまえば亡骸となり、放置すれば腐ってしまう単なる物体と思えますが、神は人間を復活させます。この体を復活させます。体は大切なものと知ります。
 今日の聖書でパウロは、

「あなたがたは知らないのですか」

という言葉を3回繰り返しています。「娼婦と交わる者はその女と一つの体となることを知らないのですか」(16節)。

 昔のコリントでは、娼婦と関係を持つことは普通のことでした。売春が認められていました。「私たちにはすべてが許されている」(12節)。そう語って、娼婦のもとに通う人が教会にいたのです。

「食物は腹のため、腹は食物のためにある」(13節)。

お腹がすけば物を食べるのが当たり前。性欲を感じれば、それを満たすのは当然と言って娼婦と関係を持つのです。パウロはそれをみだらな行為といいます。

 私たちにとって驚きなのは、パウロ

「娼婦と交わるものはその女と一つの体となることを知らないのですか」

と語ることです。
 行きずりの異性と男女の関係を持つ時、それを遊びと言うことがあります。風俗と呼ばれる仕事をしている女性と関係を持つ時、あたかも食欲を満たすのと同じように、性欲を満たしただけと言うことがあります。しかしパウロは、 娼婦と交わるものはその女と一体となることを知らないのですか、と語り、遊びであろうと性欲の処理であろうと、男女の性的関係は、それ以上の意味があるというのです。

「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)。

一体。二人の結びつきが深いことを示す。第三者が割り込めないほどに深く、親密な結びつきがあることを示す。夫婦の性的な交わり。それは夫婦という関係が特別に深いことを現している。娼婦と交わるものはその女と一体となるということは、私たちに大切なことを教えています。
 人間は二つに分けることができない何か大切なものを持っています。それをXと呼びます。二つに分けることができないから、たった一人にしか与えることができないのです。性的関係を持つこと、それは大切なXを相手に与える行為なのです。分けることができない大切なXをお互いに与えあうので、夫婦は一体というのです。娼婦と交わるとき、その大切なものを与えてしまうので、それはみだらな行為となるのです。

 大切なXを誰とも知らない人に与える、それはみだらな行為なのです。娼婦と交わると逆に、娼婦自自身の持つXを受け取る。是非とも欲しいものではなく、それは好ましいものではない。娼婦との交わりにより、「汚れ」を受けることになる、ということができます。

 高校生、大学生が興味半分で、相手が好きだからといってセックスをすることが一般的になりました。それはよくないのです。将来、自分が結婚する人に与えるべき大切なものを、相手に与え、将来の結婚相手に与えることができなくなるのです。将来、自分が結婚する人から受け取るべき大切なものの代わりに、その相手から、不要なものを受け取ることになり、私たちは汚れを受けるのです。結婚している人が、自分のパートナー以外の人と関係を持てば、妻に与えていた大切なXを妻から奪い、その人に与えることになり、パートナーとの関係が破綻します。

 私たちは体を通して他の人との親密さを表現します。異性と手をつないで歩く、腕を組んで歩く、唇と唇を重ねる、いずれも男女の親しい関係を表しています。肉体関係、男女の深い親密な関係を示します。

 私たちが持っている大切なX、それは体と関係があるようです。二つ目の「あなた方は知らないのですかは」15節です。

「あなたがたは自分の体がキリストの体の一部だと知らないのか」(6:15)。

私たちの体はキリストの体の一部であること、それ故、みだらな行いは、キリストの体を汚すことになると言って、パウロは娼婦との交わりを禁じます。大切なことは、私たちの「体」は自分のものではなく、キリストのものであるということです。

 夫婦が一体であるように、信仰を持った私たちはキリストと深い結びつきを持つようになったのです。そのことを聖書は

「主と一つの霊となる」

と述べるのです。信仰に生きるとは、キリストとの交わりに生きることであり(1:9)、キリストの思いを持つほどに一つとなることを意味します(2:16)。私たちの体は自分のものではなく、キリストの体の一部であり、キリストの体の一部であるゆえ、大切で価値あるものなのです。
 最後の「知らないのですか」は、19節。

「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり」。

私たちの体は、聖霊の宿る神殿になっているのです。

今日の聖書の適用です。大切なXはふさわしい人に与えるべきであり、ふさわしくない人からもらって体をけがしてはいけません。セックスとは、結婚式を挙げてから、一体となるべき人とすべきでものあり、結婚したら、他の異性としてはならないものだということです。そうでないセックスは、みだらな行為なのです。恋人があなたの体を求めるなら「待って」と言いましょう。もし過ちを犯していたなら、神さまに赦しを求めましょう。

 自分の体型がどうであろうと、自分の体を喜びましょう。自分の体に似合うものを着て、自分の体を喜ばせましょう。オシャレは神さまに見せるものです。キリストの体の一部である私の体、聖霊が住んでくださる私の体を私は喜び、大切にしています、と告白する行為です。それは神の栄光を現すことです。

 そして健康に留意しましょう。体を大切にするのです。
そして私の体に聖霊が住んでくださいますから、聖霊が喜ばれる生き方をしましょう。あなたが何をすれば聖霊様は喜ばれると思いますか。