クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.6.10)
コリント一7:8〜16 離婚について

7:8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。

7:9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。

7:10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。

7:11 ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。

7:12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。

7:13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。

7:14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。

7:15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。

7:16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。

今日の聖書は離婚について語っています。

  • 離婚はすべきではないが、やむを得ないものとして許されると考えます。
  • 夫婦の片方が信者の場合、未信者の伴侶は聖なる者とされていると告げられています。神の国に招かれる者とされています。

この二つが今日のメッセージです。

「未婚者とやもめ」(8節)。

未婚者とは妻を亡くした男性ことで、パウロは、伴侶を失った独身となった人について述べます。結婚した人は性の交わりの経験があります。そこで

「自分を抑制できない」「情欲に身を焦がす」

なら、つまり性の交わり求める思いを抑制できないなら、再婚してもよいと述べます。「独りでいるのがよい」とは、一人の方が心から主に仕えることができるからです。

 当時の古代地中海世界では禁欲主義が広まっていました。教会でも禁欲的な生き方が望ましいのではないか、との考えが広まり、性の交わりを控える傾向がありました。パウロは、性的欲望を抑制できないでいるよりも結婚した方がよいと現実的に考えています。

 10〜11節。既婚の信仰者に対して「別れてはいけない」「離縁してはいけない」と述べます。こう命じるのは、主イエスだとパウロは述べます。

 離婚について質問された時、イエス

「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない」(マタイ19:6)

と答えました。さらに

「あなたたちの心が頑固なのでモーセは離縁することを許したのである」

と付け加えています。イエスは、この付加を否定しているようには思えません。

 離婚した信仰者について、再婚せずにいるか、もとの伴侶と再婚しなさいと述べます。これは禁欲主義を貫くために離婚したことが念頭にあるように思えます。

 12節以降は、夫婦が信者と未信者の場合です。未信者の伴侶が結婚生活の継続を望む場合は、離婚はしないようにとの命令です。未信者の伴侶が別れることを望む場合、別れても差し支えないとあります。この場合、「人は離してはならない」とのイエスの教えに縛られていないと説明がなされています。


 現代は、離婚は普通のこととなっていますが、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。
主イエスは「神が結び合わせたものを人は離してはならない」と教えました。結婚はすべて神が結び合わせたものなのでしょうか。それとも自分たちの結婚は神が結び合わせてくださったと信じ、神の前で挙式した場合、神が結び合わせたことになるのでしょうか。私は後者だと理解します。

 信仰者は、相手が未信者であろうと、神が結び合わせてくださった人と信じてたいていは結婚します。そこで既婚のクリスチャンは離婚してはいけない、これがイエスの教えです。

 神の御心は、夫婦が一体となって生きることです。互いに愛し合い、支え合い、励ましあい、共にいること、共に生きることを喜ぶことです。そのための努力を惜しまず、離婚は極力避けるべきです。

 現実には、夫婦関係が形だけという場合もあります。よい夫婦関係を築くのが困難な場合もあります。離婚を考えざるを得ないときもあります。「主ではなく、わたしが言うのですが」(12節)とパウロが言うのをならうなら、二つの理由でやむを得ないものとして、信仰者の離婚は許されると私は言います。

第一に

「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」(14節)。

形だけの結婚生活を続け、不満や苦しみを忍耐するのは神の御心ではないと考えます。

 第二に、最初の結婚で結婚の喜びを味わえない人に、

この喜びを味わうためにチャンスを与えないほど神は心が狭くない

と考えます。

 夫婦は、愛し合う努力を惜しまず、悔い改めるべきは悔い改め、最善の努力を惜しんではならない、時には忍耐もしなければならない、これが神の御心です。私たちがこの努力を惜しむなら、最後の審判の時、神から問われることでしょう。同時に神は憐れみ深い方でもあります。

 今日の聖書でパウロは大胆な発言をしています。

「未信者の夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされている」

「「未信者の妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている」(14節)。

聖なる者とは、イエスを信じる者ことです。ですから信者の伴侶は未信者でも聖なる者とされるのです。救われた者として神から取り扱われるのです。伴侶も一緒に天国に行けるということです。慰めに満ちた言葉です。夫婦間の伝道は大切です。それは、よりよい夫婦関係を気づくことができるからです。

 でもパウロの発言は本当に信じていいものなのでしょうか。旧約の律法には、汚れたものにふれると汚れるとあります。清いもので汚れたものを清めなさいともあります。娼婦と交わるものは、娼婦と一体となり、その身を汚すのですが、夫婦の場合、信者の伴侶の清める力により、未信者は聖なる者とされるのです。信者の夫は未信者の妻を清める。信者の妻は未信者の夫を清める。うれしい知らせ。まず喜ぼう。