クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

今朝のデボーションで祈りについて教えられたので、holalaの日記に書き留めたく思った。

祈りとは、神の御心の実現を目指すこと

以前聖書を読んでいたとき、祈りについて衝撃を受けたことがある。

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう(ヨハネ14:13)。

 僕は心勇んで祈った。教会に病人が多かった時期でもあり、癒しを信じて祈った。その結果は、必ずしも願った通りにはならなかった。ある教会員の息子さんが若くしてガンになった。懸命に癒しを祈った。彼には妻と幼い子供が二人いる。残念ながら癒されず、亡くなった。これが神の御心なのだろうか。あのイエスの約束は何だったのだろう。
 神は真実な方で必ず約束を成就する方と聖書から学び、また語ってきたことでもある。とまどいを覚えてしまう。僕は「祈りは聞かれる」と主張できる人は、なぜそう言えるのか、不思議に思う。
 僕は自分の祈願したことがどうなるのか、関心を持ってきた。願った通りになればうれしいし、願ったとおりにならなければ残念である。「願ったとおりにならないのは、神さまの御心はそれとは別だから」と人が言うのを聞いてきた。そうかもしれない。いつも神の御心が実現する。それは正論だ。

 今朝気づかされたことは、祈るときの僕の本心は「神の御心」の実現を目指すことではなかった。祈りの中身からすれば、神の御心の実現を目指していたが、僕の関心は、信仰者の「自分」が祈っている祈りの実現にあった。自分が主体であった。ここに僕の祈りの姿勢の間違いがあった。