クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.7.15)
コリント一8:7〜13 自由より愛を

8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。

8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。

8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。

8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。

8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 人は自由に生きていきたいと願うものです。自分の自由な行動が他者にどんな影響を与えるのか、他者に悪い影響を与えるなら、その自由な行動は控えるべきです。他者を思う愛が、自由に生きる権利より大切です。
 聖書は、聖書が伝える神以外の「神」のことを偶像と呼びます。そういう神は実際には存在しないのです。でも人々は自分を幸せにする神として崇めています。そこで偶像と呼びます。偶像とは英語でアイドル。映画俳優、タレントもアイドルと呼ばれます。彼らの写真を見たり、彼らのことを考えていると幸せな気持ちになるからです。

今日の聖書が何を語っているかを解説します。

「偶像に供えられた肉」

を食べて良いのかどうか、コリント教会はパウロに質問しました(1節)。コリントの町では、肉は(偶像の)神殿に供えられ、それから市場に出回りました。コリントの町の人々にとって、肉を神に供え、その肉を食べることは祝福されることだと考えたのでしょう。でもキリストを信じるようになった人々はどうすべきか、です。

 あるクリスチャンは偶像なる神は存在しないから、気にしないで食べればよいと考えます。でも

「この知識がだれにでもあるわけではありません」(7節)

と述べ、パウロは注意を与えます。

「今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(7節)。

ある人々は、キリストを信じる前は、偶像に献げられた肉を食べていた習慣にとらわれ、肉を食べることに迷いを感じ、食べてはいけないのでは、と思いながら食べているのです。

「良心が弱いためにけがされる」

とは、確信がないままに食べるので、不安、後ろめたい気持ち、自分を責める思いが生じて、心に平安がなくなるのです。そのことを「良心が汚れる」と述べます。

「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8節)。

偶像に供えられた肉を食べても食べなくても益にもならないし、害にもならないのです。食べるも食べないもどっちでもいいのです。アディアフォラという言葉があります。どちらを選択してもかまわないことを意味します。状況に応じて、良心的に判断すればよいのです。あるものを食べていいかどうか、これはアディアフォラなのです。

「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(9節)。

偶像に供えられた肉を食べるかどうか、それは自分で判断して決めればよい問題と理解して自由に振る舞っているあなたの行動が、弱い人々を罪に誘う可能性を考えなさいと言うのです。
 判断に迷っている弱い人々は、あなたの振る舞いを見て、大丈夫なんだと考えて偶像に供えられたものを食べてしまう内に、ますます迷い、平安を失い、キリスト信仰が揺れ動いたり、あるいは偶像に対する信仰に戻り、キリスト教を捨てることになるかもしれない、とパウロは心配するのです。

「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(11節)。

偶像なる神は存在しない、だから偶像に供えられた肉を食べても何の問題もない、というあなたの知識が、弱い人々の信仰を揺るがせ、最悪の場合、偶像に戻ってしまうような事態を招くのです。それを「滅び」とパウロは述べます。その弱い人のためにキリストは自分の命を捨てたのです。

「あなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです(11節)。

自分は自由だ、と言ってする行動が人を迷いや滅びに追いやるとき、あなたは罪を犯しているのです。キリストは人が滅びないために自分の命を捨てているのに、あなたがたは、自分は自由だと言って人を滅びに追いやるからです。自由に生きること、キリストによって自由とされて生きることは大切ですが、それが人を滅びに追いやるとき、人に悪い影響を与えるとき、その自由は控えなければなりません。弱い人が滅びを自分に招くのはその人の責任だ、と言うこともできますが、それは愛のない言葉、弱い人への配慮を欠く発言と言わざるを得ません。

「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)。

パウロはこう述べて、弱い人の立場に自分の身を置くのです。愛のゆえに、自由を捨てるというのです。以上、今日の聖書が何を語っているかを解説しました。

 今日の聖書は、私たちに何を教えているのでしょうか。人は自由になりたいと願います。自由な行動が人をつまずかせるなら、自由な行動をやめること、愛のゆえに、不自由を受け入れるべきことを教えています。

  • 信仰の弱い人と同じ立場に立つこと
  • 弱い人の信仰を守るために、自由に振る舞う権利を捨てること

エス様も「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(マタイ18:6〜7)。こうして私たちは、人を愛する者へと変えられていくのです。

今日の聖書の適用です。

  • 聖餐の葡萄酒をブドウジュースに変えます。
  • 不信仰な言葉を口から出すことの注意。自分の信仰を語るつもりでも不信仰な言葉が出てきて、人に悪い影響を与えることがあります。
  • あなたも何か適用を考えてください。