クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.7.22)
コリント一9:1〜12a 伝道者を支える教会

9:1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。

9:2 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。

9:3 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。

9:4 わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。

9:5 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。

9:7 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。

9:8 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。

9:9 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。

9:10 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。

9:11 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。

9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。

 福音を宣べ伝える者は、教会から経済的援助を受ける権利があるという聖書の教えから学びたいと思います。

「わたしは使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか」(1節)。

 パウロは初め、クリスチャンを迫害していました。後に復活したキリストと出会い、クリスチャンになりました。彼にとってキリスト教とは、教えを守ることではなく、キリストを知ってキリストと共に生きることでした。

「わたしたちの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(フィリピ3:8)

という言葉を使っています。パウロ

「キリストの力がわたしのうちに宿るように自分の弱さを誇りましょう」(コリント二12:9)

と述べる時、キリストのすばらしさ、キリストと共に生きるすばらしさを語っているのだと思います。


 今日の聖書は何を語っているのでしょうか。


8章の終わりで、偶像に供えられた肉を食べるエクスウーシア(自由)が私たちにはあるが、自分が偶像に供えられた肉を食べるのを見たクリスチャンが、そんなことをして良いのか、迷うなら、自分は肉を食べないとパウロは述べました。人をつまずかせるなら、食べない、と自由よりも愛を優先させたのでした。

「私は自由なものではないか」(1節)。

 わたしは自由な者として振る舞っていることを主張します。ここから話の内容ががらっと変わるのですが、信仰者の自由を問題にしている点で、話しは続いているのです。パウロが語る内容を簡単に要約すれば次のようになります。

 パウロ使徒です。福音を宣べ伝える者です。福音を宣べ伝える働きのゆえに、経済的な援助を教会から受けるエクスウーシア(権利・自由)があるというのです。しかしパウロは、教会から援助を受ける権利、自由を行使しないのです。それは福音のためだというのです。福音宣教という大きな目的のために、自分の権利・自由を捨てるというのです。
だからコリント教会の人々も、偶像に供えられた肉を食べる自由はあるにしても、信仰の弱い人のために、その自由を使わずに、信仰の弱い人のことを思いやりなさい、とパウロは語るのです。

「食べたり飲んだりする権利がないのですか」(4節)。

二つの意味があります。偶像に供えられた肉を食べる権利・自由があるという意味。そして使徒として経済的援助を受ける権利、自由があるとの意味。

「信者である妻を連れて歩く権利」(5節)。

これは、妻も福音を宣べ伝える夫と共に教会からの経済的援助を受けることができるとの意味です。

「わたしには生活の資を得るための仕事をしない権利がないのですか」(6節)。

つまり教会からの経済的援助を受ける権利がないのですか、との問いです。

 7節〜10節は、仕事をする者は、報酬を得ることができると語ります。律法、神の教えにも、働く者は報いを得る権利があると書かれていると書いてあると念を押します。「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」とは大きな石臼を回転させる牛に口を開けてものを食べさせないようにしてはならないとの意味です。牛だって働けばお腹が減るのです。


 11節では、福音を伝えるという霊的な働きに対して、肉のものを刈り取る、つまり、経済的な見返りを受けるのは行き過ぎですか、そんなことはないでしょう、と語ります。14節では、「主は、福音を宣べ伝える人たちには、福音によって生活の資を得るように指示されました」と述べるのです。「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイ10:10)。以上、使徒たちはその働きのゆえに、経済的な援助を受ける権利・自由のあることを述べました。


今日の聖書の教えはこれです。

教会は、福音を宣べ伝える者への経済的援助をすべきであるという教え

です。昔のことですが、イスラエルの民は、12部族から成っていました。その中でレビ族は、神に仕える働きをするために、農耕とか、牧畜とか、収入を得るための働きはしなかったのです。そこでレビ族以外のイスラエルの民に、神は収入の十分の一を神に献げるように命じ、その十分の一を神は、レビ族に与えたのです。
 神に仕える者、福音を宣べ伝える者は、生計を立てるために必要なものを受けることができるのです。
 パウロが、テサロニケという町で伝道した時、ピリピ教会はパウロに援助をした。その援助をパウロは、私の働きに参加した、と語っています。
 伝道者の生活を支える、それは伝道者の働きに参加することだと言ったのです。


 聖書の教えの適用です。


 まず伝道者に対する教えです。伝道者は教会から、経済的に支えられるので、安心して伝道に専念できることになります。同時に安心できるゆえに、心のゆるみが生じる可能性が出てきます。パウロは、教会のないところに伝道しました。援助はないので、自分で仕事をしながら、伝道をしました。開拓伝道をするのは大変です。教会という看板は据えることができても、まだ信者がいないので、経済的な基盤がないのです。働きながら伝道をすることになります。伝道が実らなければ、信者が増えなければ、いつまでも働かねばなりません。本当は伝道に専心したいのです。
 経済的に支えられると、何とかなっていくと心がゆるむ可能性があります。自分はいつも神に誠実に務めを果たしているかどうか、伝道者は吟味しなければならないのです。
謝儀の出所は、教会員の献金です。尊い献金から謝儀を受け取ることを覚え、伝道、信徒の育成に真剣であるかどうか、問われます。


 教会に対する教えです。神に仕えるレビ人を支えるために、神は、他の部族から十分の一をささげさせ、それをレビ族の生活に当てさせました。神に献げられた教会員の献金の中から、伝道者を支える援助がなされる、謝儀が出されることになります。謝儀を出す、それは福音を宣べ伝える業に参加することになるのです。惜しむ心からではなく、喜んで献金をささげ、伝道者を支え、教会の伝道の働きに参加すべきことを教えられます。教会では、謝儀を含め教会の働きを支えるために教会員は、月定献金を献げています。これは会費ではなく、伝道そのものであることを覚えたいと思います。あなたはどんな気持ちで月定献金を献げていますか。