クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.7.29)
コリント一 9:13〜18 キリスト者の自由

9:13 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。

9:14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。

9:15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。

9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。

9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

 パウロ使徒としての自由を語る言葉から、信仰者の自由について学びましょう。
まず聖書が何を語っているか確認します。

「あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります」(13節)。

神殿で仕える者、祭壇に仕える者は、その働きに対して報いを受け取ることができるとの内容です。

「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(14節)。

パウロは、主イエスも弟子たちを派遣するに際して、福音を宣べ伝える者が報酬を得ることができることを教えたと告げます。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイ10:10)とイエスは教えました。

「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません」(15節)。

福音を宣べ伝えるパウロは、教会から援助を受けることができるのですが、パウロはこの権利を利用しなかったし、また利用したいために、今ここで書いているのではないと述べます。実はパウロは、この権利を使わないために、使徒かどうか、怪しまれたのです。権威ある使徒なら、教会から援助を受ければよいのに、それを拒むのは、使徒ではないからだ、と疑われたのです。

「それくらいなら、死んだ方がましです。・・・だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」(15節)。

パウロにはその権利を用いない理由があったのです。この権利を使うくらいなら「死んだ方がまし」と述べ、さらに「私の誇りが台無しになる」というのです。どういう意味でしょうか。

「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(17節)。

パウロにとって、福音を宣べ伝えることは誇りではありません。それは彼のなすべきことであり、なすべきことをしたからと言って誇りになるわけではないと述べます。なすべきことだから、それをしなければ、自分は不幸だ、災いだと述べます。

「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」(17節)。

ここにパウロの気持ちを理解する鍵があります。パウロはここで、自分をキリストのしもべ、奴隷と考えていることが分かります。奴隷は、自分のすべきことをして当たり前で、報酬を得る立場ではありません。自由な人として働けば報酬を得ることができますが、奴隷は、働くことを強いられており、報酬を受ける立場にはありません。パウロは自分をキリストのしもべ、キリストの奴隷と理解しています。教会から援助を受けることによって、キリストのしもべでなくなることはパウロには耐え難いこと、死んだ方がましなのです。
エスは弟子たちを伝道に派遣する時、働く者が食べ物を受けるのは、当然であると指示しました。牧師は教会から謝儀を受けて、福音宣教の働きをしています。パウロは、キリストのしもべという姿勢を徹底して貫くのです。

「では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです」(18節)。

パウロが伝道者として働くときの報いは、無報酬で福音を伝え、権利を用いないこと、つまりキリストの僕として生き抜くこと、それがパウロの報酬であり、誇りなのです。パウロは、ある人々を批判して「わたしたちは多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」と述べています。
パウロにとって大切なのは、自分はキリストに仕える者だという自己理解です。だから、伝道者として持つ権利を使わないのです。

今日の聖書が私たちに教えることは何でしょうか。

 パウロは、伝道者として持つ権利、働く者が報酬を得る権利をもつことよりも、キリストのしもべとして生きることを優先しました。パウロには、その権利、自由を使わない自由もあるのです。つまり、キリストのために自分の持つ権利・自由を放棄する自由があるのです。そしてそれはキリストの模範に従ってのことなのです。キリストは神でした。神であることを固守すべきこととは思わず、神であることを捨てて、人間となりました。パウロにとって、キリストは模範でした。

 宗教改革者ルターの言葉。

キリスト者は全ての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。キリスト者は全ての者に仕える僕であって、誰にでも服する」。

私たちは自由であり、同時にしもべであることが大切なのです。

 現代では、自己の権利だけを主張する風潮があります。クリスチャンには、仕える自由があるのです。これが私たちが受け取るべき教えです。

今日の聖書の教えは私たちの生活にどのように適用されるのでしょうか。

(1)はざまに生きる牧師

 パウロは、キリストのしもべとしての自己を徹底します。伝道という働きから報酬は受けない、すべきことをしただけと考えます。生計を立てるために、パウロは天幕作りの仕事をしました。パウロの立場はある意味で極端です。もう一つの極端な立場は、神の言葉を売り物にすることです。牧師は、この二つの極端の間を生きています。キリストの僕として生きながら、報酬は受けています。
以前、反省したことがあります。説教のためにだけ聖書を読んでいないか、つまり仕事として聖書を読んでいないか、ということです。聖書には詳しくはなります。しかし、信仰者として聖書を読んでいない。それは神の言葉を売り物にしていることにならないか、という反省です。
牧師としていかに生きるか、聖書から導きを受けるような読み方をしませんでした。デボーションを学び、信仰者として生きるために聖書を読むことを学べたことはわたしにはとっても幸いなことでした。謝儀を与えられ、生活が支えられることに安住しないで、キリストの僕として生きることが課題です。


私にとっては、信仰者をキリストの弟子にすることがキリストに仕える道です。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19〜20)。

この聖句は、わたしの存在根拠となる聖書です。


(2)パウロと同じ立場の信徒、教会員

 信徒、教会員は、生計を立てるために働いています。パウロと同じです。そして、教会で奉仕をしても報酬はありません。長老、CS教師、教会における様々な奉仕がありますが、それらの奉仕に対して報酬はありません。それは、キリストの僕としてなすべきことをしているに過ぎないから、とパウロのように考えることができます。キリストのしもべとして生きる信仰者という意識を持つことができます。パウロにとっては、キリストのしもべとして生きることが誇りであり、この誇りを失うなら死んだ方がましでした。キリストの僕として生きることはそれほどまでに、光栄なことなのです。あなたはどう思いますか。信仰者の自由、どう思いますか。仕える自由の中に栄光がある!