クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 朝5時半に目が覚める。デボーション。朝食。鶴来の農協へ。新鮮な野菜が安いと聞いたので、行ってみる。その後は小松へ。頂き物があったので、お裾分けすべく、娘の所に行った。ついでに孫の顔も見て。金沢に戻る途中も汗がたらたらと垂れる。一休みして、読書。パウロによるキリストの福音。夕方、パソコンショップへ。パソコンの性能が衰えた気がして性能を向上させるためにパーツを見て回る。来週、パソコンを組み立てよう。アブラゼミがジリジリと鳴く暑い夏の日だった。


 昨日の祈祷会で、ある人がこう語った。

 祈りが聞かれてうれしいと思える時、神さまをすばらしいと思う。
 しかし、思い通りに行かないことがあると恨みたくなる。

 
 実は、この思いは僕も共感できる。その時、ふっと思いついたので、こう話した。

ねえ、Aさん。もしAさんの孫が、「お小遣いくれるおばあちゃん大好き。でも叱るおばあちゃんは嫌い」と言ったらどう感じますか?

 僕だったらどう感じるだろうと思いめぐらした。おばあさんとして孫を愛しかわいがる気持ちは変わることがない。お小遣いをあげる時も、叱る時も、孫を可愛く思っている。孫は、好きだとか嫌いだとかいう。それは孫がおばあさんの気持ちが分からず、自分の心の快・不快で物事を判断しているからであり、それは子供の反応。神さまが私たちを変わることなく愛しているのに、神のことをすばらしいと思ったり、恨んだりするのは、我々が子供であることを示している。そう思った時に、心が晴れた。祈りが聞かれずに落胆して、神を恨めしく思う思いから解放された気がした。目が開かれた恵みの悟りを与えられた。

主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる(歴代誌下16:9)。

 信仰に生きるとは、自分の心を神の心と一つとなるようにすることである。祈りとは、神の御心を祈ることである。