クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.9.2)
コリント一 10:1〜13 試練を克服して

10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、

10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、

10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、

10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。

10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。

10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。

10:8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。

10:9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。

10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。

10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。

10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 あなたは不安、恐れ、苦しみ、辛いこと、困難などに直面したらどうしますか。それでも神に信頼しますか。神に不平を言いますか。別なものに頼りますか。
今日の聖書は

「立っていると思う者は倒れないように気をつけるがよい」(12節)

との警告です。自分は大丈夫だと思っていると倒れてしまうよ、との警告です。

 今日の聖書でパウロは、イスラエルの民が神に背き、滅ぼされるという出来事を、これは前例であると繰り返し述べ、パウロが強い調子で警告を与えていることがわかります。警告の中にも私たちは喜ばしい知らせを聞きたいと思います。

 イスラエルの民が不信仰に陥ったことを「悪をむさぼった」(6節)と言っています。どんなときに彼らが悪を行ったのでしょうか。それは彼らがエジプトから約束の土地を目指して旅をしているときでした。

 彼らはエジプトにおいて、エジプト王の支配下にあり、奴隷でした。神は彼らを解放し、自由に生きることのできる土地へ導いている途中でした。約束の土地に向かう旅は、荒野を通る旅で、困難が伴いました。困難に直面したとき、イスラエルの民は、不信仰に陥ったのでした。

 その困難の中にあっても、神はイスラエルの民全員を導いておられました。1〜4節で気がつくのは、「皆」という言葉が繰り返されていることです。神はイスラエルの民を全員、奴隷の地エジプトから解放し、自由に生きることのできる約束の地へ連れて行こうとしたのです。神は全員を救おうとしたのです。私たちが信じる神は、全員を救おうとする神です。自分は救われないんじゃないか、自分は愛されないんじゃないか、と自分を例外であるかのように考えてはいけないのです。

 神がイスラエルの民の味方となって旅を導いた様子が、イスラエルの民は雲の下におり、海を通り抜け、霊的な食物を食べ、霊的な飲み物を飲みましたと書かれています(1〜4節)。「雲」は神が共にいてくださるしるしです。「海を通り抜け」とは、あの海が二つに分かれる奇跡です。何もない荒野の旅では、神は食物と飲み水を与えたのです。

 しかしイスラエルの民は、困難に遭うと不信仰に陥ったのです。一つは偶像礼拝です。偶像礼拝とは像を拝むことです。神の像を形に作り、それを拝むことです。指導者のモーセが神と会うために民を離れたことがありました。それが40日間続いたので民は不安になりました。金の子牛を造り、神がここにおられると安心感を得、飲み食いしたのです。信仰にとって大切なことは、見えない事実を確認することです。つまり神が共におられ、私たちを助けてくださることを信じ続けるのです。

 不安に駆られると安心を得たくなります。麻薬などに人は逃避します。私たちは逃げるのではなく、神に向かうのです。

 イスラエルの民が陥った次の不信仰は、神を試みることです。

「神よ、あなたがいるなら、私を助けて」

と祈ることです。荒野で食物や飲み水に事欠いたイスラエルの民は、ここで死なすために、私たちをエジプトから導き出したのか、と文句を言いました。おまえが本当の神なら、水を与えよ、食物を与えよと要求したのです。

 神が助けを与えてくださると信じないで、神なら助けよと要求すること、これが神を試みると言うことです。信仰は、神の助けが来るのを待ちます。神を信頼するからです。
イスラエルの民が陥った別の罪は不平を言うことでした。困難に直面するとイスラエルの民は不平を言いました。不安になった時、不平は偶像礼拝となりました。耐えられなくなると、神を試みました。まず、不平が出てくるのです。神への信頼がないのです。

「私たちの先祖は皆、雲の下におり」(1節)。

雲とは神が共におられるというしるしです。それなのに困難に陥ると民は不信仰に陥り、神に背き、滅びたのです。

 パウロは、イスラエルの不信仰の事実(5〜10節)の前後に、これらは「私たちを戒める前例」(6節)「これらのことは前例として起きたのです。私たちに警告するため」(11節)と述べて私たちに警告を与えています。

 出エジプトの物語は、昔の物語ですが、私たちの物語でもあるのです。私たちも罪と死の支配から自由にされて、真の自由・平安のある天国を目ざし、この世の生活を旅として送っています。そしてこの世の生活でも試練、困難があります。パウロは、不信仰に陥るなと強調しているのです。私たちもイスラエルの民と同じように旅の途上にあるのです。
13節は、多くの信仰者を励ましてきた言葉です。神はいかなる方でしょうか。神は真実な方です。神は誠実な方です。私たちが信じる神は、真実な神です。この神は、私たちに約束します。

 私たちが耐えられない試練に遭わせることはない、と。神は私たちに困難に遭わせないとは約束しません。私たちが誘惑に負けて困難に陥ることや、周囲の人々の罪のために困難に直面することがあるからです。困難に直面しても、耐えられない試練には遭わせないと約束してくださるのです。

 さらにもう一つの約束があります。逃れの道を神は用意してくださるのです。忍耐は必要ですが、解決の道が用意されていると神は約束し、それを実現されます。それは神が真実な神だからです。

 私たちは不信仰に陥らず、この神を信頼していきたいのです。試練に直面したときは、13節の言葉を読み、「あなたに信頼します」と祈りましょう。

 さらに神は、私たちが信じることを喜ばれます。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブル11:6)。

 試練に直面して動揺することを恥じる必要はないし、それが自然です。心が揺れても信じる、それが信仰であり、それを神は喜ばれます。大切なことは、神に信頼することであり、心が揺れるか揺れないか、ではありません。心が揺れようが揺れまいが、神に信頼することが大切なのです。