クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.9.16)
コリント一10:23〜11:1 多くの人の益を

10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。

10:24 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。

10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

10:26 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。

10:27 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

10:28 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。

10:29 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。

10:30 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。

10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。

10:33 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。

11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

 パウロは偶像に献げられた肉を食べてよいかどうか、具体的な問題に対処します。その中でパウロは、信仰者はどのように物事を考えるのかを明らかにしています。

 卑近な例で言えば「信仰者は禁酒禁煙であるべきだ」と考えている人と一緒になったお酒の好きな信仰者が、その人と一緒にいる時、お酒を飲むか、です。酒を飲んだり、タバコを吸う自由が信仰者にはあります。それを見て「いいのかな〜」と思うクリスチャンもいるのです。

「すべてのことが許されている」(23節)。

信仰者に与えられた自由の表現です。

「すべてのことが益になるわけではない」ので、信仰者は益にならないことはしません。また「すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」(23節)。「造り上げる」とは「家を建てる」という意味の言葉です。教会を築くことを意味します。教会は「キリストの体」と言われます。目には見えませんが、キリストは教会におられます。また信仰者が2,3人集まるところにキリストはおられます(マタイ18:20)。そこで信仰者の集いがキリストを映し出すようになること、キリストを思わせるようになること、それが「造り上げる」ことが意味することです。

 信仰者は自由ですが、教会を築くというより高い目的のためには、自分の自由を制限するのです。自分の自由を主張しないのです。

 そのことが

「だれでも、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい」(24節)

と書かれています。偶像に献げられた肉を食べる自由が信仰者にはありますが、それが「人を惑わす原因にならない」(32節)ようにすることが大切だというのです。

 そのことを前提とした上で、偶像に献げられた肉は、市場で買ってきて自由に食べることできるし(25節)、信仰を持っていない人から食事に招かれた時でも、肉を食べてよいと、信仰者の自由を認めます。さらに「地とそこに満ちているものは、主のもの」(詩篇24:1)を引用し、汚れたものなどないことを明確にして、偶像に献げられた肉を食べることを認めます。

 ただし「これは偶像に供えられた肉です」と誰かが言う時、おそらくそれは信仰の弱い人がそう言うので、その場合は、その人を戸惑わせないために食べるのをやめなさいとの指示です(28節)。

 他の信仰者を躓かせるようなら、自分の自由を捨てるのです。それは他者のことを大切にする信仰者の交わりを築くためです。

「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(31節)。

神の栄光を現す、これは信仰者の生きる第一の目的だ

パウロは語ります。神の栄光を現すために、自分の利益を求めず、他人の益を求めるのです。戸惑いを覚える人がいるなら、偶像に献げられた肉は食べず、酒も飲まないのです。それは他人の益のために自分の自由を制限することであり、それは神の栄光のためだとパウロは語ります。

 クリスチャンの価値観はこうです。

何をするにしても、神の栄光を求めるのです。具体的な例として、ここでは自分の利益よりも、他人の利益を求めるように勧められています。神第一の価値観。キリストの教会を築くことを自分の自由より優先する価値観です。

 この世の価値観はこうです。

 他人の利益よりも自分の利益を優先します。何をするにしても自分の名誉のため、自分の栄光のために。何よりも自分の幸せを求めます。

 どちらの価値観を選ぶのか、それはあなたの自由です。では、なぜ、神中心、他者中心に信仰者は歩もうとするのでしょうか。それは人間の本質に由来します。

 聖書は、人が神に造られたこと、人は神に似せて男と女とに造られたと告げています。神に似せて造られた人間は、神を慕い求める心があります。この心は神を知るまでは満たされない思い、渇く心を持ちます。

 また人が「独りでいるのは良くない」(創世記2:18)、「男と女に造られた」(創世記1:27)、人は神と共に、他者と共に生きる時、御心にかない、幸いがあることを聖書は告げているのです。神中心、他者中心に生きることが、結局、自分を最高に生かすことにつながるのです。

 パウロは、他者中心の生き方を勧めます。信仰の強い人、クリスチャンの自由を知っている人には、信仰の弱い人のことを覚えなさいと語り、信仰の弱い人には、クリスチャンには自由があるんですと語り、自由、かつ他者への愛に、神の栄光を求める生き方へと招きます。

 最後に注目すべきパウロの言葉は「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者になりなさい」(11:1)です。

 信仰者の歩みは、見倣うことによって成長するということです。子供はお兄ちゃんやお姉ちゃんのすることを見て育ちます。あるいは親の背中を見て育つとも言われます。これは信仰者にも通じる原理です。信仰者も、他の信仰者の良い点を見倣い、歩んで成長します。そして他者の模範となるように努力します。これもまた神の栄光を現す道です。

 あなたは神第一、他者の益を求める生き方と、自分優先の生き方どちらを選びますか。今どちらですか。あなたは誰のどんな点を模範としますか。あなたのどんな点を模範として見せたいですか。あなたの行動には人を惑わすようなものがないですか。