クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.9.23)
コリント一11:2〜16 栄光を映す者 

11:2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。

11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。

11:4 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。

11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。

11:6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。

11:7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。

11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、

11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

11:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。

11:11 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。

11:12 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。

11:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。

11:14 -15男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。

11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

 コリント教会から、礼拝で祈り、預言する時、女性が頭に髪の毛を隠すかぶり物をしないでよいのかという質問があり、パウロはそれに答えています。祈り、預言するとき、頭にかぶり物をかぶらない女性は礼拝を乱していると考える人がいたのです。

 パウロは、洗礼を受けた者は皆、神の子であり、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男もなく女もなく、と述べました(ガラテヤ3:26)。女性が礼拝で祈る時、頭に毛を隠すためのかぶり物を身につけるのが習慣だったのですが、洗礼を受けた今、男女の区別はない、と考え、かぶり物をしないで祈り、預言する女性が出てきたのです。

 私たちにとっては、ピンと来ない問題ですが、パウロが具体的な問題にどう対応しようとしているのか、その態度には学ぶことができます。

「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」(3節)。

 パウロは、男女の区別はあるという原則に立ちます。神が人を男と女に造ったとき、男女の違い、区別を造られたからだというのです。

「男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です」(7節)。

「男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」(8〜9節)

と男女の違いを強調し、礼拝で祈り、預言する時、男性は頭にかぶり物を身につけないが、女性は身につけるべきであると述べます。

 女の頭は男、とパウロは男性優位な男女観を述べているように見えますが、男女の平等性も述べています。男も女も礼拝で、祈ること預言することは許されています。

「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。女が男から出たように、男も女から生まれ」(11〜12節)

と男女の平等を述べます。男女の区別と平等を述べます。

 男女の平等を唱え、女性も男性のようになってよいのだ、と男女の区別を廃する主張は退けているのです。今日、女性が働くのは当然と考えられています。女性は出産、育児のために仕事を休まねばならない場面が生じます。女性が働きやすい社会の仕組みや、夫婦間での協力が女性の社会進出のためには、必要となります。こういう問題も、男女の平等と区別を十分配慮しないと解決できません。

 男女の違いについてパウロ

「男の頭はキリスト、女の頭は男」(3節)

と述べ、このことを知って欲しいと強調しています。頭(かしら)は起源あるいは支配を意味する言葉です「男は神の姿と栄光を映す者、女は男の栄光を映す者」(7節)と述べています。これをどう理解するか、です。

 「男の頭はキリスト」。ここに男らしさを見るとしたら、それは何でしょうか。「キリストの頭は神」とあることを参考にします。キリストは、神に従順に、しかも十字架の死に至るまで従順に歩みました。それ故、神は、「キリストにあらゆる名にまさる名を与えた」(フィリピ2:9)とあります。キリストは頭である神に徹底的に従い、その命すら投げ出したのです。

 男はキリストのように生きる時、キリストの栄光を映し出すのです。結婚式の時に読まれる夫に関する教えがあります。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5:25)。

キリストが自分の命を投げ出したように、男は命を投げ出しても妻を愛するとの教えです。結婚準備会では、この聖書の言葉をもとに次のように教えています。夫は、結婚生活において生じるあらゆる事態に対して、まず矢面に立ち、率先してその事態に対処する責任を負う姿勢を示すべきである。自分の命をもって妻を、そして家庭を守るのです。自分の命を賭ける時、男はキリストの栄光を映し出すのです。

 その夫を背後で支える、それが夫に仕える妻の役目であり、夫を頭とすることです。夫に従う妻は、矢面に立つ夫を支えるのです。それが女らしさです。聖書によれば、女は男の助け手として造られたとあります。

 このような男女の違いは、家庭だけではなく、教会においても、社会においても認められるべきものだと思います。

 教会の働き(伝道、牧会、教会形成)を考える時も、責任をまず最初に担うのが男性です。その男性を支えるのが女性という考え方です。支える女性の意見や考えに耳を傾けることが大切です。

 パウロはコリント教会のことを

「伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います」

とほめています。コリント教会が問題の多い教会でしたが、ほめて励ましています。これは私たちも見倣いたい点です。

 男女の平等と違いを考えました。夫婦の間で互いの良い点を認め合い、相手に感謝しませんか。また夫婦のあり方を顧みることも大切です。男らしさ、女らしさという点で自らを吟味してみませんか。そして教会においても、男らしさ、女らしさが発揮されているのでしょうか。