クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.11.11)
コリント一12:12〜27 一つの体に組み込まれる喜び

12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。

12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。

12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。

12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。

12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。

12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。

12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

「体のすべての部分の数は多くても体は一つであるように」(12節)。

人間の体には多くの部分がありますが、それらが集まって一つの体を作っています。目、鼻、口、耳、首、手、足。肺、心臓、筋肉、骨、様々な部分から体はできていて、どの部分も欠かせません。

「足が『私は手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで体の一部でなくなるでしょうか」(15節)

とあります。どの体の部分も、体の部分であることを否定できないのです。18節にあるように、神は人間を創造される時、一つ一つの部分を必要なものとして存在させたのです。

「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)

とあるように、教会は、キリストの体で私たちはその部分です。私たちは洗礼を受けると教会に属し、教会員になります。それは組織の一員になるだけでなく、キリストの体の一部分とされることを意味します。他の教会員と共にキリストの体を作り上げるのです。

「私はぶどうの木、あなた方はその枝である」(ヨハネ15:3)。

エスはぶどうの木。我々は、枝として、ぶどうの木、キリストの一部分です。

わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け(13節)

私たちは人種がどうであれ、身分がどうであれ、洗礼を受け教会につながると、キリストの体の一部分となるのです。

 私たちには、キリストの体の一部分とされる喜びがあります。第一に私はキリストの一部分ですから、キリストがいつも私と共におられます。キリストに守られて生きることができるので安心です。試練に出会っても、大きな災害に出会ったとしても、キリストが共にいるので安心です。
 皆さん、キリストの体の一部とされていることを喜んでいますか!

 第二にキリストの体の部分とされていますから、私たちはキリストに似てくるんです。考え方も、行いも、そして性質も似てくるんです。この指が、蛙の手のようになったら大変ですよね。皆さんの鼻が象の鼻のようになったら困りますよね。皆さんの首がキリンのように長くなったら、嫌ですよね。

 イエス・キリストだって、私たちが変な部分になったら困るわけですね。人間の体の各部分は、体中に張りめぐらされた血管から、栄養を吸収します。そしてその部分としての働きをします。私たちが聖書に親しみ、聖書の教えに生きるなら、キリストに似てくるんです。キリストの体の部分にふさわしくなります。

 教会の中で、足だけがピョコピョコ歩いているのを見たことがありますか。教会の中で口だけがおしゃべりしているのを見たことがありますか。体の一部が、体から離れているのを見たことはないですよね。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです(18節)。

神さまは私たちをキリストの体の一部分とされたのです。もし私たちが、キリストの体の一部とされていることを認め、喜ばないとしたら、私たちは考え違いをしていることになります。

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

 体の部分には色んなものがあります。重要度は同じではないかもしれませんが、どの部分も体には必要です。どの部分もそれぞれの役割があり、存在価値があります。心臓。これは絶対に必要です。鼻毛の一本なんか抜いてしまいますが、これだって必要です。

「神はご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)。

 神さまが、私たちをキリストの体の一部としたからには、どの部分も必要で存在価値があるのです。私たちは、それぞれ、役割を持つ者として、キリストの体の一部分とされています。私たちは、それぞれ役割を果たし、キリストの体の部分としてキリストの体が出来上がるために用いられる喜びがあるのです。

 さらにこの体には、弱く見える部分、格好が悪いと思われる部分、見苦しい部分があるといわれます。「私がそう」と言う人がいるでしょうね。それもまた必要だというのです。なぜでしょう。

 格好が悪いと思われる部分を格好良くし、見苦しい部分を見栄えのよいものにしようとする努力がなされるからです。

「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられるのです」(24節)。

 体の部分は、お互いに配慮し、見劣りのする部分を引き立たせる努力をするのです。そして格好の良い、見栄えのよいからだが組み立てられるのです。ここには互いに配慮し、配慮される喜びがあります。

 教会について聖書は語っています。教会に属する意味は何でしょうか。

  • 私たちは、教会に属する一人びとりを大切な一員として尊びます。
  • 私たちは、教会に属する一員として、一人びとりが神から与えられた役割を果たします。
  • 教会に属する一員として、互いに配慮し合います。そしてキリストがここにいますと感じられる教会、キリストの働きを受け継ぐ教会を築きます。

 このような教会は自動的に出来上がるわけではありません。それは聖霊の助けによって造られるものです。私たちは洗礼を受け、聖霊を心に迎えました。聖霊は助け主です。聖書を悟るのを助け、聖書の教えを実行する時の助けです。

 この助け主のおかげで、私たちは互いに愛し合うことができ、互いに配慮し合うことができるようになります。謙遜に自分が部分であることを認めることができます。

 私たちがキリストの体となるためには、そのために、環境の整備が必要です。初代教会は、信徒が家ごとに集い、食事を共にし、学びを共にし、祈り、賛美をしていました。家ごとの小グループの集いが、互いに愛し合う場、互いに配慮し合う場を提供します。これは小さな神の家族です。

 この小さな神の家族が集まって、さらに互いに愛し合う大きな神の家族が造られていきます。大きな神の家族。ぶどうの木です。小さな神の家族はぶどうの木の枝です。どれもぶどうの木であり、キリストの体です。キリストの体の一部とされていることを喜び、キリストの体を築いていきませんか。