本日のメッセージ(2007.11.18)
コリント一15:35〜49 復活を信じる
15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
15:37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
15:40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
今年は5名の教会員を天に送りました。人には死の恐怖があります。死を恐れます。聖書は、死を超える希望を告げます。聖書は体を伴う復活を語ってます。
まず聖書はイエスご自身が復活したと告げます。復活したイエスは体を持っていました。イエス様は十字架で槍に刺されました。復活したイエスの体には槍で刺された傷が残っていました。復活を疑う弟子のトマスにイエスはその傷を見せ、触ってみなさいとまで言いました。弟子たちと一緒に食事をし、天に挙げられるまで40日も弟子たちと共に過ごしました。復活した人間は体を持つのです。
私たちがこの世で持っていた肉体のまま復活するのでしょうか。
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:21)。
復活したイエスは、肉の体を持っているように見えますが、天に挙げられた後は、栄光ある体を持たれ、私たちも同じ栄光ある体を持つと言われます。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(コリント二3:18)。
主と同じ姿に造り変えられるとあります。この世で持っていた肉体のままで復活するのではありません。
死者が復活することをパウロは植物のたとえを用いて説明します。
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」(35節)。種を蒔くという日常的な光景に私たちを導きます。
「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(36節)。
思い出されるイエスの言葉があります。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。
種は死ななければ生きないのです。種は死なないと実を結ばないのです。どういうことでしょうか。種が蒔かれると地面の中から芽が出てきます。種の中身、種の本体は栄養の固まりであり、これを栄養として芽は伸び、根を伸ばし、葉を出していきます。根が土から栄養をとれるようになるまで、種本体が栄養として吸収されていきます。植物の成長と共に種はやせ細り、やがて種の姿は消える。種は死ぬのです。しかし植物は茎を伸ばし、葉を沢山だし、成長し、やがて実を結ぶのです。
「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(38節)。
植物には様々な種類があり、それぞれの種があります。一つの種から植物が生まれ、別の種から別の植物が生まれ、種類に応じた植物が生えます。神はそのように植物を創造されました。神がこのように植物を創造されていることを知っていれば、人間がどのように復活するかは明らかです。種は死ぬが、種から生まれた植物は生きる。植物は、死と復活のモデルなんです。
私たちが死ぬと、つまり肉の体は死にます。しかし、新しい私たちが復活して現れるのです。
「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(42〜43節)。
私たちは朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活します。私たちは、朽ちる肉体を持って生まれ、私たちは死んで朽ち果てます。しかし、朽ちないものとして復活するのです。
今地上で生きている私たちは、卑しいものですが、輝かしいものに復活します。私たち人間は、神に創造された物の中で唯一、神の形に似せて造られたという名誉、栄光を持っています。しかし神に背き、罪を犯したために、その栄光を失い、罪深い、卑しいものに成り下がりました。しかし、輝かしいものに復活します。栄光を身にまとうのです。
さらに私たち人間は弱いものですが、強いものに復活すると告げられます。
「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(44節)。
復活するとき、私たちは霊の体を持つのです。
復活とは生き返ることではありません。体が蘇生することではありません。死ねば肉体は朽ちます。遺骨は、体が復活するときの材料にはなりません。
私たちは復活して霊の体を持ちます。霊のからだ、それがどういうものであるのかは、私たちには理解できません。この霊の体は、他の霊の体を区別されます。
私たち人間は生まれたとき、赤ん坊です。肉体が成長していきます。外面的な私たちはどんどん変化していきます。しかし常に私です。霊の体に復活したとき、私は自分を意識できます。
復活したわたしの霊の体は、他の霊の体と区別されます。それ故、霊の体を持つ私は、霊の体を持つ他の人を見分けることができます。だから天国において、私たちは他の人々を認識することができるのです。
私たちは、天国において、イエス様やパウロやペトロとそして家族や友と再会できるのです。若くして死んだ親と老いて死んだ子との出会いは霊の体での出会いなので、不自然なことはないと思います。
天国では、何よりも、顔と顔を合わせるようにして神を見ることができると聖書に書かれています。至福直観という言葉があります。神を直接に見ること、これにまさる幸せはないという意味です。それが私たちを待っているのです。死を超える希望を確かにしましょう。
後の代に語り伝えよ。この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。 詩篇48より。