クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 本日のメッセージ(2007.12.30)
 コリント一13:4〜7 愛はねたまない

「美辞麗句妬み皮肉をコーティング」(以下川柳はネットから引用。作者に感謝)

これは川柳です。妬みは誰もが感じるものです。さてパウロは、愛は妬まないと警告を与えています。なぜでしょう。妬みが教会を壊す可能性があるからです。

1.ねたみはあなたを不幸にする 

 妬みは人を不幸に落とすことをまず聖書から確認します。アダムとエバに生まれた二人の息子はカインとアベル。ある時二人は神に捧げものを捧げた。どういうわけか、神は弟のアベルの捧げものを受け入れ、カインの献げものは受け入れなかった。カインは怒ったとある。妬みの気持ちがふくらんで、怒りになり、弟を殺しました。その後カインは地上を放浪する者となりました。落ち着いた生活を失ったのです。創世記4章。

 ヤコブの息子たちは、妬みから、弟のヨセフを奴隷に売り飛ばしました。ヤコブは全部で12人の息子がいました。ヤコブは年取って生まれた子ヨセフを特別に可愛がったので、兄たちはヨセフを憎みました。父に特別に可愛がられるヨセフをねたみ、ねたむ心は憎しみへと発展しました。ヨセフが17歳の時、兄たちはヨセフを奴隷として売り飛ばしました。兄たちはその後、苦い思いを持つのです。創世記37章以降。

 モーセイスラエルの民を率いてエジプトを脱出させました。モーセは指導者として民を導きました。コラという人物が徒党を組んでモーセに反逆しました。コラはモーセが指導者として、人々の上に立つことをねたんだのです。大地が裂けてコラとその仲間たちは大地に飲み込まれ、死んでしまいました。

 妬みは憎しみに発展し、敵対心を生み出し、攻撃的になります。イエスも、ペトロも、パウロも、伝道をするとき、ユダヤ人から妬まれ、迫害を受けました。妬みは破壊力を秘めた恐ろしいものです。

「上品に構えて妬心そっと研ぐ」

 妬みを抱いて生きることは自分を不幸にします。

「自分の持っているものから喜びを引き出すのではなく、人の持っているものから苦しみを引き出している」(ラッセル)。

2.神はあなたを妬みから解放する 

 うれしいことに神さまは我々をねたみから解放してくださいます。

 なぜ妬みが生じるのでしょうか。自分を人と比較するからです。人間は、自分を人と比較して、自分の価値を確認して自分を誇ったり、幸福を感じたりするからです。今までは、誇ったり、幸福を感じることができていたのに、状況が変わり、立場が逆転すると、とたんに妬みを感じるのです。特に身近にいた人が自分より、うらやむような状態になると感じます。

 想像するだけでもねたみが生じます。

「想像で嫉妬の沼は底なしに」。

 イエスは「人間の心から、悪い思いが出て来る」(マルコ7:21)と述べ、「みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」を挙げています。ねたみは、人間の心にわいてくる、「悪い思い」です。

 悪徳表のリストに必ず出てくる。「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5章)。

 ねたみは罪です。七つの大罪の一つと言われています。七つの大罪とは、「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲」です。

 世間では、妬みは人が持つ普通の感情とされています。マイナスの感情なので持たない方がよいとされます。そのためには、人と自分を比較をしない、人は人、自分は自分と割り切る、という忠告もなされます。

 人が自分の価値、幸福を他の人との比較によって得ようとする限り、妬みはなくなりません。人と比較しなければいいのでしょうか。そうはいかないのです。自分が価値ある存在であることは、自分では確かめることはできません。人が自分を認めてくれるから、自分を価値ある人間と感じることができるのです。誇りを持つことができるのです。

 人が自分について、何にも言わなければ、自分はどうでもよい人間に思えてしまうのです。まして「お前は駄目なやつだ」と否定的なことを言われれば、プライドは傷つき、誇りは持てません。そして人が自分よりも他の人のことをほめれば、ねたみはわいてきます。

 妬みは感情です。気がつくとわいてきます。でもねたみがわいてこないようにすることができます。比較する思いを持たなければいいのです。私たちは有名人と自分を比較してねたむことはないと思います。比較しないからです。神の助けで比較する気持ちをなくすのです。私たちの思いを変えるのです。

 神は「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ43:4)と言ってくださるのです。だから私は尊い存在なのです。他の人がどんなに優れていても、うらやむような状態にあってもねたみを感じる必要はないのです。

 私のことを尊い存在だと言ってくださる神の言葉を信じることです。これを信じるかどうかです。

これが妬みに対する特効薬です。

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)。

 私たちが聖霊の導きを祈って聖書に親しむこと、神がいかなる方であるかを学び、人はいかに生きるべきかを学んでいくと、私たちの思いは変えられ、マイナスの感情、ねたみ、憎しみ、悪口、悪意などから私たちの心がきよめられていきます。

3.あなたは人を愛し、ねたまないで生きることができる。

 パウロは、コリントの手紙で、教会のことを語っています。教会はキリストの体として一つにならなければいけないと語っています。ねたみは、教会の一致を壊すのです。

 「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(コリント一3:3)。だからパウロは、愛はねたまないと警告しました。

 ねたみの心がわいてくるときには、妬まないという選択をするのです。私たちは感情ではなく、意志で愛します。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」(ペトロ一2:1)とあるように、妬みの感情に左右されることをやめるのです。
 
 悪い習慣(妬む)を直すためにはよい習慣で置き換えなければなりません。悪い習慣だけやめることはできません。妬む代わりに他のことをするのです。

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)。

 相手を敬い、その優れたことを学ぼうとするのです。うらやむような状態にある相手を祝福するのです(創世記12:3)。これを習慣とするのです。
 
 妬みを克服して人を愛するようになるための聖書の答えは

  • 「わたしの目にあなたは価高く、貴い」という神の言葉を信じる。
  • 妬む思いがわいたら、妬みを感じる人を敬い、その人の中に模範を見いだし、祝福することによってねたみを捨てる。祈ってする。
  • 聖書に親しみ、私たちの思いを変える日常的努力をする。

 
4.適用

  • あなたはかつて誰にどんな妬みを感じましたか。今はどうですか。
  • 妬みを克服する努力をしませんか。
  • 妬みから解放されませんか。
  • 教会は妬みから解放され、互いに相手を敬い、相手のすぐれた点を模範としようとする人々の集まりです。そうなることを目指しています。あなたもそういう人になりませんか。妬みで悩んでいる人に、自由になれますよって告げる人になりませんか。
  • 信仰の後輩が自分よりも信仰が成長するのを見て、あなたは妬みを感じていませんか。大丈夫ですか?