クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.1.6)
コリント一13:4〜7 愛は自慢しない

愛は自慢しないと教えられます。時には、教会で自慢大会を開始したら面白いかもしれません。聖句をいくつ暗唱できる、一日に何章聖書を読んだことがある、何回聖書通読した、聖書の順番を言える、などなど。

1.あなたには自慢する心がきっとある

日本は世間体を重んじる社会です。多くの人は、人から自分がどう思われるかを気にします。悪く思われることを嫌います。よく思われることを心がけます。よく思われていることに価値を見いだします。よく思われる状態をつくって安心します。それは、私はこれだけやったという自慢する心の現れです。結婚式や葬儀を豪華にする。大きな家を建てる。子供をいい学校に入れる。いい車を買う。自慢する心の現れです。

聖書には

「右手のすることを左手に知らせるな」(マタイ6:3)

という教えがあります。自分の良い行いを人に見せびらかすなという教えですね。自慢するなという教えですね。

 皆さん、自慢する心がありますか。私にはないって思っていませんか。
 落ち込むことは自慢心のしるしです。試験の点が予想外に悪かった。昇進できると思ったのにできなかった。上手にできるはずの料理がいまいちだった。CSでうまく教えることができなかった、などと落ち込み、落胆することがあります。そこには<自分はうまくやれる>と思う無意識の心がある。うまくできないので落ち込む。それは自慢心の現れです。

 失敗を恐れる心も自慢心のしるしです。失敗をすると惨めな自分をさらすことになります。失敗はしたくないので、新しいことに対する挑戦をためらいます。何かを頼まれれば、自分にはできないと断ります。裏返せば、うまくやって人から認めてもらいたい、ほめてもらいたい考えがあるわけです。カッコウよい自分を見せたいのです。失敗を恐れる心も自慢心の現れです。

 その他、心密かに、自分はうまくできた、自分もなかなかのものだと自己満足する心も自慢心の現しるし。あなたには自慢する心がきっとある、どうですか? 人間は罪人ですから、あって普通です。

2.あなたは自慢せずにはおれない人間だ

 自慢する心は、自分を認めてもらいたいという思いから発します。自分を価値ある存在だと思いたい心から発します。こういう思いを持たない人は一人もいません。自分を認めてもらいたいと子供はぐずります。泣きじゃくります。

 ねたみも、自分を認めてもらいたいという思いから発します。自分が認められたいと思っている時に、人が優れているように思えてしまう。その時に、ねたみが生じます。

 自分を認めてもらいたい心、これは自己中心です。自分のことしか考えていないからです。他人から認められ、ほめられて喜ぶ心、自分で心密かによくやったと満足する心。根深く人間にはあります。あなたには自分を認めてもらいたい、ほめられたい、そんな心、ありませんか。あなたは夫から認められたい、妻から認められたい、親から認められたい、先生から、牧師から、上司から、部下から、仲間から、認められたい、そんな思いありませんか。

 自分を認めてもらいたいという思いは、神を見失った人間に共通の思いです。神こそ、私たちを愛し、私たちを認めてくださる方だからです。神こそ、私たちを認めてくれる天の父です。父である神を見失った人間は、誰か自分を認めてくれる人を求めざるを得ないのです。

「彼らは神と認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され」(ローマ1:28)

とあり、「高慢であり、大言を吐く」ことが無価値な思いとして書かれています。自慢するのは無価値な思いと聖書は告げます。

3.あなたは自慢しないで愛に生きることができる

 教会は、互いに愛し合う信仰者の集いです。信仰者は、人々のすぐれた点を敬うように教えられています。

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)。

他の人のすぐれた点をほめ、その人を敬います。これは愛から出る行為です。人を愛し、その人の良さを認め、励ますのです。だから、私たちは、自慢しなくてすみます。教会っていいですね。

 認められよう、ほめられようとする必要がなくなります。感謝なことに、人々が自分を認めてくれるのです。互いに認め合うのです。互いに尊重し合うのです。ほめてもらうために、認めてもらうために何かをする必要はありません。

 ほめられたら有頂天になるのではなく、そのように導き、生かしてくださる神さまをたたえるのです。

 教会において、キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合い、互いを認め合う交わりの中に生きることができるのです。互いに協力して教会の働きに仕えていく中で、私たちは互いに認め合い、感謝し、互いの存在を喜ぶのです。私たちが愛し合う神の家族に属するなら、愛し、愛され、自慢する必要がなくなるのです。

 さらに神様も私たちを愛してくださり、私たちを神の子とするほどに価値ある存在と認めてくださいます。教会にいれば、ありのままの自分を喜ぶことさえできるのです。

「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。

 私たちは自分がほめられ、認められる生き方は目指しません。自分を通して、神がほめたたえられ、崇められることを目指します。自分が認められたい、ほめられたいというチマチマした生き方は捨てます。

 私たちが神を愛し、人を愛する生き方をすればいいのです。罪とは何ですか? 神を愛さないこと、人を愛さないことです。神の教えは、神を愛し、人を愛することですから。

4.適用

  • ほめられたい、認められたいという心がありますか。あなたの心を探ってください。
  • 心の中で密かに、自分はこれができた、と満足する心がありますか。あなたの心を探ってください。
  • 自己満足することがあなたの幸せですか。あなたの心を探ってください。
  • 神さまは、あなたを救うために独り子イエス・キリストを犠牲にするほどにあなたを愛されています。神さまの愛を受けとめることができますか。
  • あなたは他の人のすばらしい点を見て、その人をほめたことがありますか。
  • 子供をほめていますか。ほめてみませんか。
  • 夫をほめていますか。ほめてみませんか。
  • 妻をほめていますか。ほめてみませんか。
  • 信仰の友をほめていますか。ほめてみませんか。
  • 互いに愛し合い、互いに認め、ほめ、励まし合う教会を築きませんか。
  • 教会というのは、そこに来ることがうれしくなるような所です。そういう教会を築く人になりませんか。