本日のメッセージ(2008.2.3)
コリント一13:4〜7 愛は自分の益を求めない
今日福音として聞きたいことは、私たちは他者に関心を持つことによって愛を表現することができるということです。
1.真理につまずかない人が幸いであろうと知ろう。
「愛は、自分の利益を求めない」
「愛に生きようとするなら、他者のために生きていきなさい」
と今日の聖書は命じています。世のほとんどの人々は、自分の幸せのために生きています。確かに、人のために、生きることができればそれは素晴らしいでしょう。でも私は自分のために生きるので
オナカイッパイ、
イヤ、モウイッパイ、
いや精一杯とか、
何で人のために生きなければならないの、という人もいるでしょう。
パウロはコリント教会に「愛は自分の利益を求めない」と忠告せざるを得ませんでした。
「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(コリント一10:24)。
聖書の教えは時に逆説的で、すぐには受け入れられないことがよくあります。そこでイエスは、
「私につまずかない人は幸いである」
と言われるのです。イエスを信じることに障害があっても、障害につまずかないで信じる人を幸いな人とイエスは言っています。すぐには信じられない、受け入れられないと言って、背を向けるのではなく、それでも信じる人、受け入れる人は幸いなのです。それは無理矢理信じることではありません。
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(2:14)。
神の霊に導かれる時、私たちは信じがたいこと、受け入れがたいと思っていたことを、信じ、受け入れることができるようになります。愛は自分の利益を求めない。これはすんなり受け入れられる教えではありません。どうしてそんなことをしなければならないんだ、と反発さえ生みます。神に導かれる時、この教えは本当だ、真理だと受け入れることができるようになります。
「愛は自分の利益を求めない」。
あなたはこれをどう受けとめますか。
変な教えだとつまずかないでほしいです。「そんなの関係ない、そんなの関係ない」とつまずかないでほしいです。まず、つまずかない人は幸いであると知りましょう。
2.愛の実践を伴う信仰が大切と知ろう
「キリスト・イエスに結ばれていれば、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)。
愛の実践を伴う信仰こそインポータント、大切です。愛を伴う信仰がなぜ大切なのでしょうか。
愛を伴わない信仰、他者を愛そうとしない信仰は役に立たないのです。役に立たない信仰、死んだも同然の信仰なのです。
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:14〜17)。
これはちょっとシンコウ〜ク(深刻)ですね。
確かに、信仰は、信じる人自身に益をもたらします。私自身、罪の赦し、死の恐怖からの解放、劣等感からの解放、罪責感からの解放、思い煩いからの解放、平安、など個人的に豊かな恵みを受けました。このように恵みを受けた私は、人を愛することが私に対する神の願いであることを知ります。だから、私は、自分の信仰が愛を伴う信仰になることを願いますし、また心がけます。
他者の利益を大切にする人は、実は自分を大切にする人です。イエスによると神の教えは二つに要約されます。一つは神を愛することです。今ひとつは、自分を愛するようにネイバー・隣人を愛することです。
自分を大切にできる人が隣人を大切にできると解釈することもできます。実は、以前、教会の長老から批判されたことがあります。あなた人の気持ちが分からないでしょ!自分の気持ちを大切にしていますか?自分の気持ちを大切にしていないから、人の気持ちがわかんないのではないですか?
それまでの私は、自分がすべきことしか考えていなくて、自分の気持ちなんか全然、ドントスィンク、考えていませんでした。それから自分の気持ちを大切にするようにしました。確かに、自分の気持ちを大切にしていく時、他者の気持ちも大切にしたいと思うようになりました。自分の気持ちを大切にすることは、自分を大切にすることです。さらに、神が願う人間になることが、自分を大切にすることにつながります。
自分を大切にするとは、自分のやりたいことをすることではありません。自己実現をすることでもありません。神が願う人間になることです。それが救いだからです。神の願う人間、それは救いとして、自由と解放を味わう人間です。神の願う人間、それは自由を味わった上で、人を愛する人です。自分の利益を求めないとは、自分のことはどうでもいいという教えではありません。他者の利益を求め、他者を愛することです。それは愛する人間になることであり、神の願う人間になることです。
私たちは聖書が互いに愛し合いなさい、と教えていることをドントフォゲット、忘れてはいけません。私たちが互いに愛することを心がけるのです。ここに愛する喜びが生まれます。その結果、愛されるのです。愛される喜びも生まれます。夫婦が、互いに相手から愛されることを求めていたら、争いが生まれるでしょう。夫婦が互いに愛そうとするなら、喜びと平和が生まれるでしょう。私たちが互いの利益を求めるように振る舞うなら、教会は愛に満ちた教会になります。
3.他者に関心を持つ生き方をしよう
聖書のメッセージの適用です。適用するとあなたが変わり、あなたの人生がチェンジします。変わります。まず、他者に対する関心を持ちましょう。
私たちは信仰者として、あえて他者に関心を持つのです。それは相手のプライバシーに無遠慮に踏み込むことではありません。私はあなたのことに関心があります、というメッセージを伝えることです。
教会で顔を合わせる人に対して関心を持ちましょう。まずは、心です。他者に対して関心を持とうとする決心です。他者に対して関心を持つことを決心したら、まずは挨拶です。親しい人に挨拶するのは、誰もがすることです。ですから、今まであまり挨拶をしなかった人と挨拶をするように特に心がけましょう。
「おはよう」。「一週間どうでした」。
別れる時には「お元気で」。これを繰り返していけば、だんだんうち解けていくでしょう。
少しずつ自分のことを話すようにしましょう。少しずつ相手のことを知るようにして親しくなりましょう。相手のために祈ることができるようになれば、あなたはその人を愛しています。互いに祈り合うことを一つの目標としましょう。信仰者の交わりなのですから。
挨拶によって、互いに愛を表現する教会をつくりましょう。「挨拶」、それは愛し合う教会の土台です。まずは土台作りから励みましょう。互いに愛を表現する信仰者になりましょう。互いに愛し合うチャーチをメイクしましょう。