クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.3.9)
コリント一13:4〜7 愛はすべてを忍ぶ

皆さんは鯛が好きですか。

伊豆では、今、金目鯛がおいしい時期だそうです。

実は、鯛には沢山の種類があるんです。皆さんはどんな鯛が好きですか。

接待? これが好きで問題を起こす人が時にいますね。(クスクス笑い) 

晴れ舞台? 安泰? 

皆さんの嫌いな鯛は?

うしろめたい、じれったい、緊急事態、

痛い、耐え難い、失態、冷たい、(クスクス笑い) 


信仰的な鯛もあります。

三位一体、聖歌隊

信仰者が神に対して持つのは、期待

(会衆の方を見回して)

あれ、あそこらへんに鯛がいます。

ねむたい(笑い)

今日のテーマも鯛です。忍耐!

愛は、すべてを忍耐する

と聖書は語ります。

忍耐の向こうには、実りが待っています。


1.忍耐は神への愛から生まれます 

「愛はすべてを忍ぶ」

とあります。

愛は何事にも忍耐し、誰に対しても忍耐するのです。

なぜ、愛は忍耐するのでしょうか。

神が導いて事を実現させてくださるからです。

神が導いて人を変えてくださるからです。

私たちは、神の働きを忍耐して待つわけです。

神を愛するから、神の導き、働きを信じるのです。

そもそも、この忍耐の模範は、神様ご自身です。

神様は、私たちがイエス・キリストを信じ、新しい人間として生きるのを待っています。

信じた私たちが、聖書の御言葉に従って生きるのを待っています。

私たちが愛に生きるのを辛抱強く待っておられます。

牧師に説教をさせ、人々が導かれるのを待っています。

「神がいるなら、なぜこの世界に苦しむ人が沢山いるのか。この世界になぜ、戦争が起き、人々が殺し合っているのか」

と言う人が沢山います。

「神なんかいない」と人々は言うのです。

しかし神様は、そんな非難を黙って聞いています。

神様は、イエス・キリストを信じた人が罪を悔い改め、愛に生きるのを待っています。

クリスチャンが平和を作り出すのを待っておられます。

信仰者が世界を変えるのを神は、忍耐強く待っているのです。

私たちもこの忍耐に倣うのです。

忍耐は、神を愛し、神に信頼することから生まれます。

神を愛するから、神の模範に倣い、忍耐するのです。

神の導きを信じるから忍耐するのです。

今どの教会も高齢化し、若い人が少なく、CSに来る生徒の数も少ないのが現実です。

伝道は困難と言われています。

神様は、色んな出会いを私に与えてくださり、牧会とは、人を育てることであると教えてくださいました。

神様は、私を愛し、導いてくださっていることを実感しています。

信徒を育てる営みを続ければ、必ず、教会は、質的にも量的にも成長すると信じています。

それが神のみ心であり、神が導いてくださると信じて忍耐して焦らずに、牧師としての務めを果たしています。

だから私は焦りません。

牧会できる年数も長くはないので、私の働きは種まきで、刈り取りは他の方がすることになるでしょう。


2.忍耐とは、神の導きに期待すること 


信仰者とは、自分で何とかしようとしない人のことです。

何事かを達成しようとするなら、努力は必要です。

努力をしないで、何かを達成しようとするのは、無理です。

ですから、何かをしようとする時、人はどうしたらいいか考え、努力します。

でもクリスチャンは、祈りから始めます。なぜなら、クリスチャンは神と共に歩むからです。

でも神に祈らず、どうしたらよいかを自分で考え、行動に走るクリスチャンもいます。

そして行き詰まった末に、神に祈るのです。

信仰者とは、祈りをもってはじめ、神の導きに期待する人のことです。

どうですか皆さん、祈りをもって事を始めていますか? 

祈りをもって始める習慣を是非、身につけて欲しいものです。

忍耐とは、神の導きに期待することです。

神の導きに期待するとは、自分の努力を放棄することではありません。

神の導きに期待するとは、どうしたらよいのか、自分で考えることを放棄することではありません。

自分で考えたことを祈りの中で神に語り、祈りの中で神に聞くのです。

神は

「それでいい」

というかもしれません。

「ちょっと待て」

というかもしれません。

ちょっと待ちなさいと言われたら、考え直します。

あるいは、聖書を読みながら「どうしたらいいのでしょうか」と神に聞くのです。

どうしたらいいか分からない時、「教えてください」と祈ります。

神が教えてくださるのを待ちます。忍耐して待ちます。

神は必ず、導きを与えてくださいます。

導きを待ち、与えられたら導きに従います。

神がよい結果を導いてくださると信じます。

繰り返し、繰り返し、導きを求めて歩みます。

だから忍耐が生じます。

先日、創世記を読んでいました。

エジプトに売り飛ばされたヨセフが兄弟との再会を喜び涙を流しました。

これを読みながら、兄弟が共に信仰を喜ぶことができたらどんなにうれしいことか、と思わされました。

あらためて信仰を持っていない妹に伝道をしなければと思いました。

ラクトを三種類ほど買ってきて、送りました。

返事が来ました。横田早紀江さんのことを綴ったトラクトがよかったと感想がありました。

でも、私はこれからも自分の力で精一杯生きていきたいと書いてありました。

この手紙にどう返事をしたらいいか、今考えています。

一生懸命がんばってきた妹の気持ちを理解してあげることが大事だと思っています。

その上で、神様を紹介しなければなりません。

どんな風にすればいいのか、今、神様の導きを待っています。

聖書を読みながら、導きが与えられるのを待っています。


3.忍耐は、積極的な態度である 


忍耐というと我慢するだけ、というイメージがあります。

そうなのでしょうか。

頑固な親の態度、自分勝手な夫の態度に、ただひたすら耐えるだけ。それが忍耐、と言う人がいます。

忍耐とは、何もしないことではありません。忍耐は積極的なものです。内に秘めた力がないと忍耐はできません。

神の導きを求めて生きる

という積極性があります。

よく言われることですが、相手を変えるためには、自分を変える必要があります。

そればかりではなく、相手を変えるための工夫も、必要です。

自分の伴侶に伝道をしたい、神を求めるように変わって欲しい、と願います。

祈りが必要です。いつも祈ります。

神の導きを求めながら、伴侶に伝道することが必要です。

神に導かれた行動をして、待つのです。

その時、その時に応じた神の導きを待つのです。

聖書を読みながら、神の導きを受け取って働きかけます。

時が満ちるのを待ちます。

牧師として、教会員のあの人がこんな風に変わればいいなと思うことがあります。

まずは祈って待ちます。

本人が自分の問題に気づいていないこともあります。

説教では、気づいて欲しいなと思いつつ、その人に向けて語ります。

祈祷会では、こうしたら、と直接導くこともあります。

そんなことをしながら忍耐をもって待っています。

「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」

とあります。

  • 信じ続けるには忍耐が必要です。
  • 希望を持ち続けるにも忍耐が必要です。

信じ続ける、望み続ける、それができるのは忍耐があるからです。

願うことが必ず実現すると信じ、望みつづけるには忍耐が必要です。

あきらめないのも忍耐です。

時には、自分が生きている間には、実現を見ることもできない忍耐もあります。それはそれでいいのです。

実りを信じることで終わっても、それはそれでいいのです。

私たちにとって生きるとは、神と共に歩むこと、愛する人たちと共に歩むことだからです。

神様がいつの日か、実りをもたらしてくだされば、それでいいのです。

信じ続ける、望み続ける、それができるのは忍耐があるから、そのことを今日は覚えて欲しいです。

神の導きを信じるから、忍耐ができる、そのことを覚えて欲しいです。

  • あなたが忍耐をもって取り組むことは何ですから。
  • くじけそうになった忍耐を立て直しませんか。