クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.4.13)
聖書 コリント一13:8〜13 愛は決して滅びない


1.「愛は決して滅びない」とはどんな意味だろうか?


 どういう意味でしょうか。人間の世から、愛がなくなることはない、ということなのでしょうか。いつの世でも、男女は相手を求めて愛し合い、親は子を慈しみ、愛します。人は困っている人を見れば、親切にします。親切は愛から出ます。


 人間の存在と共に愛はあり、愛はなくならないという意味でしょうか。確かに、愛が壊れることはあります。夫婦の愛が冷め、別れることはあります。でも人はまた別の異性と愛し合うことができます。親の愛を信じられないで、親から見捨てられたように感じる子供がいます。子を持てば、自分は親としてしっかりと子供を愛したいと思うのです。人の心から、愛する気持ちはなくならない、そういう意味なのでしょうか。


 パウロはこれまで愛について述べてきました。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、妬まない、愛は自慢せず・・・・」。もしこのような愛を抱き続けるなら、夫婦の愛の絆は強まっていくでしょう。子も親から愛されていると感じるに違いありません。愛は決して滅びないとは、人間の世に愛はなくならないということではありません。

2.愛の意味


 聖書に書かれている愛はギリシャ語ではアガペーと言います。アガペーの愛は、忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢せず、という種類の愛です。人が自分をアガペーの愛で愛してくれるのはうれしいですね。


 相手がアガペーの愛で愛してくれないのに、アガペーの愛で愛しなさいと言われたらどう思いますか。あなたの夫を顧みてください。あなたの妻を顧みてください。あなたの親を顧みてください。


 アガペーの愛で愛してくれないのに、あなたはアガペーの愛で愛しなさいと言われたら、どう思います。


 アガペーの愛なんて、アカンベーって言いたくなりますね。アガペーの愛は神の愛です。アガペーの愛は、神が人を愛する時の愛なんです。


 旧約聖書のホセア書に、神の愛が描かれています。そこでは繰り返し裏切る妻をどこまでも愛し続ける夫の愛として神の愛が語られています。物質的な繁栄を求めて他の神々を礼拝するイスラエルの民をなおも愛し続ける神の愛を、夫婦の愛にたとえています。


 アガペーの愛の特徴は、自己犠牲です。自らを犠牲にして愛する愛です。アガペーの愛の特徴は、無私の愛です。無私とは、「私が無い」、自分を主張しないことです。相手のことだけを思うのです。


 これの典型は、イエス・キリストの十字架です。キリストは自らを犠牲にして、人間を愛しました。それは人間が神に立ち帰るためでした。このような愛は、神から出る愛です。このような愛を人間が持つことができるとしたら、それは神からいただく必要があります。ローマの信徒への手紙の中でパウロは言っています。

「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)。

 アガペーの愛の典型は、放蕩息子の物語にも現れています。親が生きているのに、自分の受け取り分をくれ、と要求する子供に財産を与える父親。その子が財産を使い果たし、落ちぶれて戻ってきた時に、抱きしめる父親。子の帰還を心から喜ぶ父親。自分の子供を無条件に愛する愛です。


 私たち人間の愛は、アガペーの愛ではありません。無条件に、自己犠牲的に愛することはできません。聖霊によって私たちの心にアガペーの愛が注がれるその時、私たちもアガペーの愛で愛することができるようになります。もしあなたがアガペーの愛で人を愛せないなら、まず、アガペーの愛が自分の心に注がれていると信じなさい。私たちは信仰によって生きるのです。


3.愛は滅びないとは?


 では、愛が決して滅びないとは、どういう意味でしょうか。キリスト教は十字架につけられたキリストを宣べ伝えてきました。磔にされた人が救い主なんて愚かな話です。そう思いませんか。


 おまけに、自分の十字架を背負いなさいというイエス様の命令があります。十字架を負いなさいとは、自己犠牲の歩みをしなさいとの意味です。一回きりの人生、自分のやりたいことをすると多くの人は考えます。それなのに、十字架を背負いなさいとイエスは教えるのです。


 イエスも文字通り十字架を背負いました。死刑が行われる場所に、自分を死刑にするための十字架を自分で背負っていくのです。自分が死刑になるための十字架を自分で背負って死刑場まで歩いていくのです。それが自分の十字架を背負うという意味です。


 ばかばかしいとまで思えるキリスト教がなぜ、この歴史から消えないのでしょう。伝道が思うようにいかなくても、なぜキリスト教は廃れないのでしょうか。それは「愛が決して滅びない」からです。


 アガペーの愛は、神の愛です。神が人間を愛しておられるという事実は、忘れ去られることはないのです。いや、人類は、この神の愛を必要としているのです。そして、人類は、この愛で、人を愛したいのです。


 アガペーの愛で人を愛するなんて、ばかばかしい、損をするぞ、と悪魔が私たちの心にささやきます。しかしアガペーの愛で人を愛する時、私たちは、自分が人間らしく生きていることを悟ります。そして何とも言えない喜びが、神から来る喜びが心を満たすのです。お金や名誉や快楽では決して満たされることのない心の渇きが癒されるのです。そこには、愛し、愛される真の喜びがあるのです。心の渇きは、神の愛を求めるのです。


 無条件に神に愛されたいのが人間なのです。無条件に愛してくれるのは神だけです。人は、愛する価値があれば愛してあげるというのです。人は、愛する価値のなくなったものは愛しません。だからこそ、無条件の愛で、人は神から愛されたいのです。人は神の形に創造されましたから、神の愛を求めるのです。そして神は、人を愛し続けるのです。


 神が愛し続ける限り、「愛は決して滅びないのです」。この神の愛に応えて、アガペーの愛で、人を愛する信仰者が生まれます。ばかばかしい愛、損をする愛かもしれません。でもアガペーの愛で愛することを喜びとする人がいなくなることはないのです。


4.愛の成就をはるかに仰ぎつつ 


 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残るとあります。神は、アガペーの愛で人々が愛し合うようになるのを願っています。そのために、教会が存在しています。私たちは、信仰者が互いに愛し合う教会ができると信じ、望み、愛し合うのです。教会で愛することを学んで、この愛を家庭に持ち帰ります。私たちは、家族が互いに愛し合う家庭になると信じ、望み、愛し合うのです。


 かくしてすべての人がキリストにあって一つにされることを信じ、望み、愛し合うのです。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(12節)。

 昔の鏡はぼんやりとしか映し出せなかったのです。そのように今は、神をはっきりと見ることはできません。愛し合う教会も、家庭も、今は、ぼんやりした中途半端なものかもしれません。しかし、「その時」は。つまり世の終わりが来て神の国が実現する時は。その時は、神をはっきり見ることができるでしょう。そして神の国には、神に愛され、互いに愛し合う人々が集まっていて、愛にあふれていることが分かるでしょう。


 私たちは神の国に迎え入れられた時、心から喜ぶために、今、愛し合うのです。アガペーの愛で。富も名誉もこの世のものも皆過ぎ去ります。


 しかし愛だけは残るのです。愛こそ、大いなるもの、命をかけるに価するものです。