午後、デボーションの学びを行った。先月洗礼を受けた人との学び。御言葉に従って生きる人生を歩んでほしいとの願いがある。テキストは「デボ吉」。僕自身もこれを使ってデボーションをするときもある。よくできているテキストだと思う。僕はこのテキストを聖書ドリルと呼ぶ。聖書を読み、いかに適用するのか、身につけやすい。2008年度は、これを使って教会でデボーションの学びをするつもり。
ところで説教は何を目的として行うのだろうか。福音を伝えるため? 説教を聞いた人が福音にふさわしい生活をするため? 聞く人に励ましを与えるため? 何のために牧師は説教をするのだろうか。
リック・ウォレン牧師は、聞く人の人生を変えることに説教の目的があると書いている。自分のする説教が有効かどうか、どう判定したらよいのか。聞いている人の人生が変わってきたかどうか、それによって説教が有効かどうか見直すことができる。「人生を変える」のが説教の目的という表現は、僕はすっきり納得できる。
僕の説教を用いて神は聞く人を変えてくださっているのだろうか。変えられている人がいれば、変わらない人もいるみたいだ。
パウロは福音のためには何でもすると書いた。僕は説教において、人を笑わせようとギャグのネタを考える。ある求道者の人が自分の娘に「礼拝にいかない。面白いから」と話したそうだ。笑いも礼拝に導くきっかけになるなら、それを求めたいと思う。